戦国武将・武田信玄というと、上杉謙信との川中島の合戦があまりにも有名ですが、政治家としても優れた手腕を発揮しています。
特筆されるのは釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした点です。信玄が領民に慕われ、現在も郷土を代表する英雄として人気を集めているのは、民政に力を入れていたからではないでしょうか。
また、信玄の時代には商・職人集団の編成と甲府への居住が進められ、城下町は南方に大きく拡大して、駿府や小田原と並ぶ東国有数の都市に発展しました。
寺院の数も50ヵ寺を越えていますが、善光寺などは城下町での用地確保が困難となったためか、山を隔てた板垣郷に創建されています。
甲府を中心とする交通網の整備も着々と行われ、往還に沿って荷継ぎの馬を配備した宿町も発達しました。
晩年の信玄は京都を目指して上洛の軍を起こし、遠江(静岡県)の三方ヶ原で徳川勢を粉砕しましたが、病気のため、夢むなしく信州の伊那駒場で53歳の生
涯を閉じました。
| 1521年 |
信虎嫡男・太郎(晴信、のちの信玄)積翠寺で誕生 |
| 1536年 |
晴信、三条公頼の娘と結婚 |
| 1541年 |
晴信、家督を継ぎ、甲斐国主となる |
| 1546年 |
晴信、勅使三条西実澄らを積翠寺に招き、和漢連句の会を開催 |
| 1547年 |
甲州法度之次第(信玄家法)制定される |
| 1548年 |
信州上田原で村上義清と合戦
甲府城下町が過密となり、農民の田畑・屋敷の拡張・新築が制限される |
| 1551年 |
晴信、京仏師康清を招き、自らを模刻した武田不動尊を造る |
| 1553年 |
第1回川中島の戦い |
| 1554年 |
武田・今川・北条の三国同盟固まる |
| 1555年 |
第2回川中島の戦い |
| 1557年 |
第3回川中島の戦い |
| 1558年 |
信州善光寺の本尊を甲府に移し、甲斐善光寺の伽藍造営に着手 |
| 1559年 |
晴信、信玄と名乗る |
| 1560年 |
釜無川に信玄堤が完成し、盆地底部の開発が進む |
| 1561年 |
第4回川中島の戦い |
| 1568年 |
信玄、駿府城攻略 |
| 1572年 |
信玄、西上の軍を起こし、三方ヶ原で徳川勢を撃破 |
| 1573年 |
信玄、信州伊那の駒場で病没 |
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家族
信玄公には、長男義信など7男5女、計12人の子供がいた。長男と三男は亡くなり、二男は目が不自由だったため四男の勝頼公が信玄公の跡を継いだ。妻は側室を含め6人。
死因
天正元年(1573)4月12日、戦陣の途中、信州の伊那で病死。死因は胃癌や結核、肝臓病などが考えられる。臨終の時、3年間は自分の死を隠すように遺言したといわれる。
名前
幼名は勝千代。元服(成人)して晴信となり、仏門に入って信玄を名乗る。戒名は恵林寺殿機山玄公大居士。太郎、晴信、信玄、機山はすべて信玄公の名前。
風林火山
中国古代の孫子の兵法「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」の四句の各句の終わりの語を集めると「風林火山」となる。
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