更新日:2011年10月1日

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武田氏三代の歴史

 武田信玄

武田信玄の画

戦国武将・武田信玄というと、上杉謙信との川中島の合戦があまりにも有名ですが、政治家としても優れた手腕を発揮しています。
特筆されるのは釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした点です。信玄が領民に慕われ、現在も郷土を代表する英雄として人気を集めているのは、民政に力を入れていたからではないでしょうか。

また、信玄の時代には商・職人集団の編成と甲府への居住が進められ、城下町は南方に大きく拡大して、駿府や小田原と並ぶ東国有数の都市に発展しました。寺院の数も50ヵ寺を越えていますが、善光寺などは城下町での用地確保が困難となったためか、山を隔てた板垣郷に創建されています。
甲府を中心とする交通網の整備も着々と行われ、往還に沿って荷継ぎの馬を配備した宿町も発達しました。

晩年の信玄は京都を目指して上洛の軍を起こし、遠江(静岡県)の三方ヶ原で徳川勢を粉砕しましたが、病気のため、夢むなしく信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じました。

略年表

1521年 信虎嫡男・太郎(晴信、のちの信玄)積翠寺で誕生
1536年 晴信、三条公頼の娘と結婚
1541年 晴信、家督を継ぎ、甲斐国主となる
1546年 晴信、勅使三条西実澄らを積翠寺に招き、和漢連句の会を開催
1547年 甲州法度之次第(信玄家法)制定される
1548年 信州上田原で村上義清と合戦
甲府城下町が過密となり、農民の田畑・屋敷の拡張・新築が制限される
1551年 晴信、京仏師康清を招き、自らを模刻した武田不動尊を造る
1553年 第1回川中島の戦い
1554年 武田・今川・北条の三国同盟固まる
1555年 第2回川中島の戦い
1557年 第3回川中島の戦い
1558年 信州善光寺の本尊を甲府に移し、甲斐善光寺の伽藍造営に着手
1559年 晴信、信玄と名乗る
1560年 釜無川に信玄堤が完成し、盆地底部の開発が進む
1561年 第4回川中島の戦い
1568年 信玄、駿府城攻略
1572年 信玄、西上の軍を起こし、三方ヶ原で徳川勢を撃破
1573年 信玄、信州伊那の駒場で病没。3年間、その死を隠すよう遺言

 武田信虎

武田信虎の画

武田信虎には暴君のイメージがありますが、有力土豪層が割拠して乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、戦国大名・武田氏の基盤を築いた人物として、最近では高い評価が与えられています。

信虎が相川扇状地のつつじが崎に館を造営し、本拠地を移転したのは永正16年のことで、時を同じくして有力土豪層の城下集住策を進め、城下町の東西出入口部には市場を設けて物資の流通を確保しました。たくさんの寺社も創建されています。
整然とした都市プランをもつ城下町の建設は、それまでの甲斐国内ではなかったことで、この時期に信虎の飛躍的な勢力伸張があったものと推定されています。

甲府開創直後にも土豪層の反抗があり、この時点で信虎の一円支配が確立していたとは考えられませんが、甲斐の中心に位置し、甲府盆地一帯を眺望できるつつじが崎への本拠地移転には、自己の政権を不動のものとし、北条・今川氏などの国外諸勢力に対抗しようとする戦国大名・武田信虎の強固な姿勢が読み取られるのです。

略年表

1494年 信虎、誕生
1507年 信虎、武田家を継ぎ、甲斐国主となる
1519年 信虎、相川扇状地のつつじが崎に新館を造営し、家臣や商・職人の
集住を図って城下町甲府を開創する
館の周辺には八幡宮・御崎明神が創建される
1520年 つつじが崎の館北方の積翠寺丸山に要害城が築かれる
1521年 信虎、甲斐に侵攻した駿河福島勢を甲府近郊の飯田河原に破る
信虎の菩提寺・大泉寺が創建される
1523年 甲府城下町西側入口に湯村山城築城
1524年 信虎、相模国津久井郡に出兵し、北条勢と合戦
甲府城下町南端の一条小山(現・甲府城跡)に砦が築かれる
1525年 猿楽衆が甲府に招かれ、連日、能楽が催される
1526年 信虎、富士北麓で北条氏綱と戦い、大勝
1531年 信虎、離反した今川・大井・栗原氏などを掃討
1535年 信虎、今川・北条両氏と交戦
1538年 信虎、冷泉為和らをつつじが崎の館に招き、和歌の会を開く
1541年 信虎、駿河に退隠される

 武田勝頼

武田勝頼の画

武田勝頼は偉大な父・信玄の活躍の影に隠れがちですが、国主となった直後は信玄でさえ攻略できなかった高天神城を陥落させるなど、大いに気を吐きました。

織田信長・徳川家康連合軍との長篠の合戦は、鉄砲と騎馬隊との戦いとして歴史の教科書にも必ず登場するほどに有名ですが、この時代に騎馬隊がなかったことや鉄砲の三段撃ち戦法も疑問視されることから合戦の内容は江戸時代に相当脚色されているものと考えられます。
しかし、武田勢が総力戦で大敗したことは事実で、以後、勝頼は劣勢挽回のため、北条氏や上杉氏との同盟を模索することになりました。

勝頼の時代には、商・職人の城下集住策が継続されるとともに、領国内の升や秤といった度量衡が統一されて、生産・流通の統制が強化されました。城下町の富裕商人の中には政治に口をはさむ者まで現れたことが『甲陽軍鑑』に記されています。

勝頼の墓は法泉寺にひっそりと建てられていますが、武田家滅亡の悲哀を訪れる人に訴えているかのようです。

略年表

1546年 勝頼、誕生
1562年 勝頼、諏訪氏の名跡を継ぎ、信州高遠城主となる
1573年 勝頼、甲斐国主となる
1574年 祖父・信虎、高遠で病死。大泉寺で葬儀が行われる。勝頼、遠江高天神城を攻略
1575年 勝頼、三河の長篠で織田・徳川連合軍と戦い、壊滅的打撃を受ける
1576年 恵林寺で信玄の葬儀が執行される
勝頼、安芸の毛利輝元に書状を送り、織田信長の包囲を図る
1577年 勝頼、北条氏政の妹を正室に迎えて、勢力の回復を図る
1578年 勝頼、越後府内に出陣し、謙信没後の上杉家内紛調停に努める
1579年 勝頼、駿河黄瀬川で北条氏政と対陣
勝頼の妹・菊姫、上杉景勝に嫁ぐ
1580年 武田、北条の水軍、伊豆重須沖で交戦
勝頼、鉄砲玉10万発の調達を命じる
1581年 勝頼、織田勢の甲斐侵攻に備えて
韮崎に新府城を築城し、移転。甲斐の新府中とする
1582年 織田・徳川連合軍、甲斐に侵攻し、勝頼、大和村田野に滅ぶ

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