更新日:2022年7月14日

ここから本文です。

こうふ開府500年記念誌/甲府歴史ものがたり外伝

駅前噴水平成31年4月1日に発行した『こうふ開府500年記念誌』に掲載されなかった本市の歴史や文化等を「外伝」として紹介します。

 

 

 

 

 

その1.夢にみた江戸城

将軍に会いたい

甲府城下を仕切る町年寄は、格式にこだわる。その1つが江戸城に上がり、将軍にごあいさつを申し上げることであった。それは甲府徳川家の治世下では認められていたが、柳沢時代に取り止めとなっていた。
甲府勤番の時代に代ったところで、これをチャンスととらえたのだろうか、町年寄は江戸参府をたびたび願い出る。「年頭や将軍家の祝儀に、町年寄が城下町の代表として江戸城に上がることは、昔からの例(ためし)である。それが中絶したままだと甲斐国の威光に関わる。」しかし、願い先の勤番支配が交替やら何やらで一向に埒が明かない町年寄・坂田氏7代目の与一左衛門忠堯(ただあき)も、延享4年(1747)の就任以来、出願をくり返した。

夢みる与一左衛門

この与一左衛門忠堯、自分がみた24の夢を書き留めた。題名はそのまんま「夢」。すべての夢ではないので、いわゆる夢日記ではない。フロイト流に自分の深層心理を探りたかったとも思えないが、また何で夢を記録する気になったのだろう。
最初は宝暦9年(1759)正月20日の夜の夢である。「空で万歳(年頭に家々を回り、祝儀を述べて舞う芸人)3人。1人は太鼓、1人は笛を吹く若衆、1人は鈴を振る女が面白く踊っていた。そして、白い雲に乗って東に飛んで行った」。要はめでたい夢(きちむ)だけを書き残したものか。と思いきや、「獄門にかけられた首を2つみて、おそろしかった」というような夢もある。

夢の願望が現実に…

下の図は、記念誌(43ページ)『甲府歴史ものがたり』2-5「町役人の仕事と暮らし」に載る図と同じである(山梨県立博物館所蔵「夢」)。この夢(安永3年[1774]7月29日の夜)について、もう少し詳しく述べておこう。
「東の方に火事であろうか、煙が立っている。しずまると東の空に長さ30cmほどの白い顔(図)がくるくると回り、だんだんと自分に近づいてきた。まことにありがたいことなので、大願成就と三拝した」。図のような巨顔が迫ってきたら怖いと思うのだが、江戸参府という「大願」がある忠堯にとっては、これも祥(きちじょう)なのであろう。
実際に、江戸城に上がった夢も見ている。江戸城の大きな御殿に通されて、ご飯と卵が入った汁だけご馳走になったり、高い所に登って門や塀を眺めたりと…。挙句の果てには駿府城にも上がって、幕に縫いつけられた鶴の絵が、そのまま抜け出して、そこらを歩いたりしているのをみている。
夢にまでみた町年寄の江戸参府は、安永6年年頭に実現する。しかし、その年4月、忠堯は突如、町年寄を引退する。甲府勤番支配に呼び出されて、町年寄の役儀を取上げられて、隠居を命じられたという。現実世界の忠堯に何が起ったのであろうか。

「夢」(山梨県立博物館蔵)(「夢」山梨県立博物館蔵)

ページの先頭へ戻る

 

その2.誰が為に時の鐘

焼けてしまった時の鐘

時の鐘の「音」は、各町の出入り口にあった木戸の開閉や、農業用水と生活用水の利用時刻、湯屋の営業時間の時報のほか、火災時には緊急サイレンとしても使われた。「音」だけに城下の住人すべてが、その恩恵を受けた。
このありがたい時の鐘、文化3年(1806)12月に鐘楼と鐘撞人(かねつきにん)が詰める小屋とともに燃えてしまった。この火事の火元が鐘撞人の自宅というのがまた皮肉である。その後しばらく鐘楼は仮設状態が続き、鐘も溶けたわけではなかったらしく、そのまま無理やり使っていたようだ。

よみがえれ!時の鐘

文化15年に、鐘楼の再建工事が行われた。鐘も鋳直(いなお)されて新しくなった。ここで気になるのは費用である。「音」の復活に誰がお金を出したのであろう。それは「みんな」であった。
再建の費用は、商業が盛んな地域、いわゆる甲府城東側の下府中がより多く出しているという傾向がみられる。豪商といって差し支えない者は、甲州金1両を払っている(現代の感覚だと5万円から20万円ぐらい)。ただ、それ以上の高額を払っている者がいない。かわりにその日暮らしであろう店借(たながり)たちも、個々は少額だがしっかり出している。さらに甲府勤番士や、長禅寺前にあった甲府代官所の役人たちといった武士層も出している。受益者負担として、時の鐘の再建は広く浅く、城下のみんなが負担すべきと考えられたのであろう。それだけ城下の生活のリズムとして根付いていたのだ。
こうして集まった費用は合計で甲州金73両1分(ぶ)と銀9匁(もんめ)8分少々。天明5年(1785)に江戸日本橋に近い本石町(ほんごくちょう)の時の鐘を再建したときの費用が約74両なので(浦井祥子『江戸の時刻と時の鐘』)、甲府の時の鐘は、江戸中心部のそれと遜色ない規模だったのかもしれない。

ごちそうにありつく

工事は文化15年2月下旬から始まった。3月3日に鐘を下ろし、6日には新しい鐘に取り替えられた。そして、4月5日にめでたく棟上げ(むねあげ)となる。この工事、当然ながら大工や鋳物師などの職人、各町からの人足など多くの人々が関わった。町役人も総動員である。工事期間中は、毎日、朝と昼に町名主が2人ずつローテーションで現場に顔を出した。
これだけ人が集まれば、飲み食いも生じて、それも会計が残っている。なぜか「さしみ」がよく計上されており、ひらめ・ぶり・塩まぐろ・いなだ・煮貝など、海のない当地ではなかなか豪勢である。上連雀町の富士井屋からは酒も度々仕入れている。3升5合買った翌日に2升、そのまた翌日に4升と購入している。3日間で約1斗(と)、およそ18リットルである。仕事になったのか?…これが必要経費として認められていたのである。
ともあれ、みんなの思いを受けて、装いも新たに鐘の音は城下に響き渡ったのである。

ページの先頭へ戻る

 

その3.牛と羊と藤村紫朗と

甲府城跡を牛が行く

明治維新後、荒れ放題になっていた甲府城跡(現在、国史跡)の活用策として、1つの答えになったのが、明治9年(1876)につくられた勧業試験場である。それは、農事試験場と翌年設置の葡萄(ぶどう)酒醸造(じょうぞう)所からなる。県令(今でいう県知事)藤村紫朗(ふじむらしろう)の殖産興業(しょくさんこうぎょう)策が、甲府の町を大きく変貌させていた時期だ。
その年の10月、藤村は内務省に申請する。洋牛を牡(おす)・牝(めす)取り合わせで5頭、「山梨県に貸して欲しい」と願い出たのである。県下には牧場に適した場所が多いが、洋牛を飼うことへの不安から牧場経営に二の足を踏む者がいるので、まずは試験場で先鞭をつけるということであった。そして、翌10年、内務省から拝借したアメリカ種「デボン」牛3頭と、静岡県沼津その他より買い入れた数頭の洋牛が、甲府城跡で草を食むようになった。

生と死をみつめて

拝借した2頭の牝牛から、それぞれ2頭ずつの子牛が誕生した。また買い入れたアメリカ種の牝牛と、拝借した「華豹」の牡牛を交尾させて、これまた子牛の誕生をみている。「これはいける」となったのだろう。県下の農産社は、県から洋牛の貸与を受け、兵庫県より但馬(たじま)牛100頭を購入、日野春(ひのはる)村(北杜市)・円野(まるの)村(韮崎市)・甲府花園(はなぞの)町(丸の内)に牧場を開いた。
しかし、芽吹く命あらば、散る命もある。明治11年8月初旬、拝借した栗毛の牝牛の乳房が腫れあがったので、種々、治療につくした。9月初旬には回復したようにみえたが、やがて下痢をくり返し、乳房が硬くなった。次第に衰弱し、ついに9月24日、帰らぬ牛となった。2頭の母であった。
日本の牛を考えた場合、明治初期は生死に大きな変化があった。今まで農業には欠かせない存在であったのが、肉食の広まりとともに、食用として人間の目に映るようになった。

紫朗さんの羊

藤村紫朗は羊の飼育にも力を入れた。明治8年8月に買い入れた中国種の「綿羊(めんよう)」3頭は、風土・気候がマッチしたのか、約1年半後には9頭に増えた。さらなる繁殖のため、藤村は内務省に牡2頭、牝8頭の拝借を願い出る。明治10年に東京の上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会では、勧業試験場で生産された羊毛が出品された。羊の飼育はある程度の成績を収めたのであろう。
藤村は湯村温泉の活性化にも関わっている。湯村温泉には「谷の湯」という、近隣の農耕馬などを湯に入れる、別名「馬の湯」と称する源泉があった。ここに温泉施設が建てられて、賑わいをみせるようになったのは明治16年以降のことである。きっかけは1頭の羊であった。藤村がかわいがっていた羊が病気になり、「谷の湯」に入れたら、たちまち治った。そこで、こんなにも効能がある「名湯」に、家畜だけ入湯しているのはまことに「遺憾」の至りであるとして、地元の有力者に整備を働きかけたという。その結果が、今につながる温泉街の形成である。藤村紫朗は動物好きだったのかもしれない。それが甲府の歴史のどこかに影響したかもしれないのである。

ページの先頭へ戻る

 

その4.夜の昇仙峡

遅塚麗水(ちづかれいすい)の昇仙峡紀行

昇仙峡は、江戸時代から、すでに景勝地として知られていた。紀行文の大家として知られた遅塚麗水は、明治39年(1906)刊行の『ふところ硯(すずり)』に、昇仙峡の紀行を記している。
ある秋の日、麗水は午後1時半ごろ甲府に汽車で到着する。甲府城跡の堀のほとり「桃柳」という店で遅い昼食をとり、これから金桜神社まで行くつもりだ。店の主人からは、「今日は柳町あたりにでも泊まって、明日の朝早くに出たほうがよい」と勧められたが、麗水はあえて出発する。
徒歩で和田峠を越え、昇仙峡の入り口・天神平に着いたのは、もう夕暮れ時であった。茶屋の老夫婦は、夜の山は危険だと(もっともだ)宿泊を勧めるが、麗水は断固として出立するのである。

暗闇の渓谷

麗水は、「旅情」を強く求めていた。夜の渓谷で、川の流れる音、山猿の声、煌々(こうこう)たる秋の月を友に、山の風情を飽きるまで楽しむつもりだったのである。
日はとっぷりと暮れるが、麗水は進む。風は寒く、吹かれる落ち葉が顔を打つ。紅葉が美しい時期なのに、落ち葉の色さえ暗くてよく見えない。そして、やはりというか道に迷う。天神平の老夫婦の正しさを悔いるが、今さらどうにもならず、先へ進むしかなくなる。月はよく輝いていたが、道が曲がりくねっているため、少し蔭になっている所は漆黒の闇である。暗中模索で落ち葉をかき集めてはマッチで火を着け10歩ぐらい進み、そのくり返し。落ち葉も見つからなくなると、こうもり傘を燃やして松明(たいまつ)代わりにした。

心温まる?ふれあい

坂を上がると、ようやく建物の灯りがみえた。そこは能泉(のうせん)小学校、1人の少年が応対に出た。麗水が「このあたりに旅館は?」と聞くと「ない、他に人家もない」との答え。麗水が一夜の宿を頼んでも頭を振り、扉を閉めて帰ってしまった。仕方なく、麗水は再び歩き始めた。だが、さすがに疲れたらしく、石門で草を敷いて野宿を試みるも、寒すぎて挫折、重い足を引きずり、また歩く。しばらく行くと馬蹄の音が聞こえ、幼子を背負った木こりに出会う。麗水は天の助けと、神社前までの案内を乞うが、この木こりはかなり酒に酔ってごきげんである。しかも労賃の多少によっては旅館まで案内してもよい、と言い出した。そこに登場したのが、木こりの妻。夫をたしなめ、麗水を自宅まで案内し、お茶でもてなした。家には青年といってよい年長の子どももいて、麗水はその青年に連れられて、神社前の旅館「松田屋」に到着、ちょうど午後9時だった。

それでも絶賛

翌朝、金桜神社を参拝した麗水は、朝食後、午前8時に宿を発った。昨夜、散々な目に遭わせてくれた昇仙峡は、うってかわってその絶景でもてなしてくれた。天神平の老夫婦に無事な顔を見せ、和田峠を下り、甲府の牛肉屋で精を取り戻した。
夜の渓谷を徒歩で行くという、現在でも恐いとしか言いようがないことをした麗水。こうもり傘を燃やして杖(つえ)のようにしてしまった麗水。しかし、昇仙峡の「秀麗(しゅうれい)」なさまを、群馬県の妙義(みょうぎ)・榛名(はるな)、日光の剣が峰、飛騨の神通(じんずう)渓流を凌駕(りょうが)すると絶賛している。麗水は、明るきも暗きも、まさに昇仙峡を味わい尽くした、ということではないだろうか。

御嶽昇仙峡の渓谷美特別名勝御嶽昇仙峡の渓谷美

ページの先頭へ戻る

 

その5.「怪」を呼ぶ水辺

水に棲む妖しい存在

江戸時代中期のこと。甲府に赴任した勤番士・野田成方(しげかた)は、甲斐の地理・風俗などを『裏見寒話(うらみかんわ)』という本にまとめた。この時期の甲斐を知る恰好の文献である。その中にはいくつか不思議な話も載っている。記念誌『甲府歴史ものがたり』1-5「かわうその受難」中のエピソードもそうだ。
愛宕町の所左衛門なるものが笛吹川を渡っていたら、かわうそに追いかけられた、というのだ。成方は、かわうそは人に害をなすものではなく、害するのは「川太郎」(=河童(かっぱ))だと評している。しかし、同時に鰡(ぼら)の年を経たものがかわうそとなること(!?)、夜分に川舟から食物を失敬することが、江戸では度々あるといっている。列島の多くの地域では、かわうそは美男・美女に化けて人をだます(時には殺害する)妖怪の一種として語られることが多い。
新紺屋町から愛宕町にぬけるため、藤川に架かる土橋を夜更けに渡ると、橋の下から小豆(あずき)を洗うような音が聞こえるという。畳町の橋でもこのような現象が起きたらしい。全国的にみられる「妖怪・小豆洗い」である。音以上の怪異はなかったらしいが、不思議なだけに怖い。中丸村(北杜市長坂町)には木の上にいて、通行人をざるですくって食べてしまう「小豆そぎ婆」という、リアルに恐ろしい小豆系妖怪がいたと伝わる。

危機一髪!国玉(くだま)の大橋

橋のような「境界」を象徴する場所では、何かと怪異なことが起こりやすいようである。昔、ある旅人が猿橋(大月市)を渡っていたら、婦人に手紙をことづけられた。国玉の大橋のところに人がいるから渡してほしい、と言う。道中、旅人がその手紙を盗み見ると、「この人を殺すべし」とあったから、胆が冷える。大あわてで「この人殺すべからず」と書き直した。かくして国玉に到着。早速、憤怒の表情の婦人が出てきて、手紙を受け取る。しかし手紙を見て、ていねいに謝礼、旅人はつつがなく去る。この事件のあと、「大橋の上で猿橋のことを言えば怪異、猿橋の上で大橋のことを言ってもまた怪異が起こる」と、伝えられるようになった。

釣りも命がけ?

大津村は甲府城下から手ごろな距離にある釣りスポットであった。鮒(ふな)がよく釣れ、1尺(約30cm)を超す大物もいたらしい(『甲府歴史ものがたり』1-4「川のめぐみ」)。
9月末のよく晴れた日、勤番士5~6人が鮒釣を楽しみに大津村の渕にやって来た。午の刻(正午)頃、西の空から材木のようなものが飛んできて、着水、1丈(約3m)あまりの水しぶきが上がった。かなり「物凄い」ことになったらしい。あとで、「これは颷(ひょう=つむじ風)ではないか」という話になった。地元では「水颷」と呼んでいたようである。
不思議な現象に、どのように説明をつけるか(妖怪のしわざか?自然現象か?)。これも、人びとの歴史的営為の産物なのである。

ページの先頭へ戻る

 

その6.暑中、コレラが襲う

幕末のコレラ流行

安政5年(1858)、6月に日米修好通商条約が結ばれ、7月には13代将軍の徳川家定が死亡、いよいよ幕末の混迷が増したその時、コレラが日本にやって来た。
上海から長崎に入ったコレラは、たちまちに全国に広がり、江戸で3~4万人の死者が出たという。この恐るべき病気が甲府でもみられるようになったのは7月下旬からで、ちょうどその時、八幡北村(山梨市)から市川喜左衛門という村役人が、甲府代官所に用があり、横近習町に滞在していた。そして、市中のコレラ流行の様子を記録に残したのである。流行は7月24日頃からみられたらしい。1日に2~3人が死亡した。28日頃になると、1日に8~9人と死者が増加。8月上旬には日々30~40人が死亡したというからすさまじい。発症すると全身が冷え、手足が震え、嘔吐と下痢が激しい。医者も昼夜、不眠不休で診察に回り、手を尽くしたが、その甲斐なく死亡する者は増え続けた。甲府の死者は町年寄の調査だと、8月中で303人、9月は中旬までに103人を数えた。一方、喜左衛門は9月26日までに626人としている。

助けて、神さま

元紺屋町の八雲(やくも)神社の境内に、コレラ流行の翌安政6年に奉納した石灯籠がある(写真)。そこは江戸時代、祇園寺だった。疫病(えきびょう)除けの神、牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていた。人々は何とかしてもらおうと牛頭天王にすがる。甲府代官所も、「遠くへ去らないと、牛頭天王が征伐に来るぞ」、と「疫神」に対してお触れを出した。その他、住吉大明神・浅間大明神の神輿(みこし)も町々を練り歩いた。
なぜこんな恐ろしい病気がはやるのか。熊野の鳥が世のおごりを戒めるためと言ったという噂が広まる。また、8月13日に火元がよくわからない火事が発生し、「天火」だという話にもなった。人々は熊野の「神武御鳥」(じんむおんとり?)を神棚に祀ったり、「規氏将軍内懐中御守」と書いた紙を戸口に貼り付けたりした。みんな、必死でマジカルパワーを信じる。それだけ打つ手は少なかった。

科学的対処、なのか?

それでも、何とかコレラを予防・治療しようとする態度は確かに存在した。江戸の勘定奉行が触れ出した、コレラの療法が甲府でも周知される。「とにかく体を冷やすな」、「大酒・大食は慎め」といった予防。発症した場合、桂枝(けいし)などを原料とする「芳香散」を服用。焼酎に樟脳(しょうのう)を入れ、温めて木綿に浸し体に塗る。芥子(からし)とうどん粉を熱い酢でまぜ、木綿にのばして貼る。等々。
何が本当に効くのか、誰も判断できなかった。桑の根・南天の葉・黒豆・黒ゴマ・小麦を煎じて飲むとよい。これは、喜左衛門が、江戸から帰ってきた山田町の藤井屋半七から聞き取った話である。つまり噂のたぐいと言ってよかろう。効くとなると何でもよかった。男は右、女は左で足跡をつけ、その土踏まずの所に灸を据える。「人は足を使えば、流行病も受け付けない」と、誰かが言ったらしい。かなりマジカルでもある。9月上旬には、人の便を絹か木綿で二重に包み、煎じて呑めば嘔吐が直り、全快するという話が出た。なんともおぞましく、余計に悪化するであろうが、みんなが不安な時には、とんでもない情報が行き交うということだろう。
明治維新まであと約10年の時代相であった。

八雲神社の石灯篭八雲神社の石灯篭

ページの先頭へ戻る

 

その7.虫がいる生活

季節とともに…

季節のうつろいを人間に知らせる使者-それが虫である。記念誌『甲府歴史ものがたり』1-8「自然がおりなす四季の名所」には、明治34年(1901)当時、月ごとに季節を堪能できる名所が表にまとめられている。この内、虫が主役になっているのが、6月上旬からの鎌田(かまた)川や荒川などの蛍、9月上旬からの東光寺や大宮村(湯村など)の「聴虫」、つまり秋の虫だ。
美しい音色を奏でる秋の虫は、江戸時代には一般庶民にも愛でられていた。江戸には、スズムシを採っては売り歩く商売があり、需要の拡大で、人工飼育も行われる。さらにカンタン(スズムシに似て、「りゅうりゅう」と鳴く)やマツムシ、クツワムシなども養殖された。中には、飼育技術の工夫により、季節はずれで鳴く虫も登場したそうだ(高橋千劔破『花鳥風月の日本史』)。

蛍合戦

さて、見て楽しむホタルは、甲府でも江戸時代から鑑賞された。鎌田川は蛍合戦が見られることで有名だった。旧暦4~5月頃が盛りで、ホタルが群れをなして上へ行ったり、下に行ったり-その様子がくんずほぐれずの「合戦」に例えられた。このホタルは当時、「山蛍」とか「蒲(かま)蛍」と呼ばれ、かなり大きかったという。くらべてみると、「蒲蛍」の方が小さくて、光が薄かったらしい。明治時代には、「みよみよ、みよみよ」と、ホタルを呼んだ。ただし、生息地で春に川浚(さら)いがあると、その年のホタルは少なくなった。人間の営みと環境保全との問題は、すでに、このような形でも見られたのである。

夏の虫

夏の風物詩・セミについては、江戸時代中期と、約100年後、幕末に近い時期の史料に記述がある。中期には、セミは3月末には(旧暦だが)、快晴であれば樹上で鳴き始めたという。しかも山間部では特に鳴き始めが早かったらしい。ハルゼミが多かったのか。これが幕末近くになると、「セミの声に似ている虫」とあり、どうやらセミとは違う虫だったことが判明した。そして、本物のセミが登場すれば、見えなくなったという。甲府のセミは江戸のセミと同じ種類だが、なぜか江戸よりはるかに数が少なかったともある。意外に、夏は静かだったのかもしれない。

さて、夏になるとカやハエも活発に行動する。しかし、幕末期、夏の甲府城内の「御役小屋」は、江戸の武家屋敷よりカが少ないといわれた。さらに標高が高い積翠寺あたりでは、夏の間中、蚊帳(かや)をつる必要がなかったという。明治以降になると、衛生観念が普及する。そうするとカやハエは、病気を人間にもたらすとして、ある意味、その存在がクローズアップされる。明治33年7月、甲府尋常・高等小学校の児童に「夏期休業中の心得」が配られた。その中で、「ハエは伝染病の媒介をするものなので、仇敵(かたき)と思って追い払え」とある。感染症の原因となるというのは合理的思想だが、「仇敵」と思えとはずいぶん感情的である。それほどいまだ病気が恐い時代だったのである。

ページの先頭へ戻る

 

その8.大和座の挑戦

大正時代の甲府芝居

江戸時代や明治の甲府で大人気だった歌舞伎芝居も、時代が新しくなるにつれて衰退の兆しをみせる。その原因は種々あるが、1つには活動写真(映画)に大衆の人気が移ったことが大きい。もちろん、すぐに歌舞伎人気がなくなったわけではない。大正4年(1915)に市川猿十郎の「だんまり」、松本錦升の「源平布引滝」が甲府で上演された際は、「各製糸場が休業中だったので毎夜大入り」になったという。
しかし、大正時代の甲府は、「甲府の演芸界は活動写真が全盛で、浪花節・落語・義太夫などは独立しての興行が成立しない」とか、「甲府市の演劇趣味はドン底に落ち、春芝居も打てない」といった状況が新聞で報じられた。当時は桜座と巴座の2大劇場があったが、欧米の演劇要素を取り入れた新派劇や新劇といった新しいタイプの演劇を盛んに上演するようになった。

大和座の登場

さて、活動写真に人気が移っていた甲府の芸能状況の中、新しい芝居劇場が2つ誕生した。三日町(現中央)の演芸場・稲積館をリニューアルした甲府劇場が大正8年に、代官町(現相生)に衆楽座(翌年大和座と改称)が同10年に開業した。後者の大和座の主は、内藤甚三郎である。この人物、父が桜座の初代座主だった。
桜町の桜座は、明治9年(1976)に出来た三井座の経営を、甚三郎の父・内藤文助が同17年に引き継いで開業した芝居劇場である。その時の広告チラシには「これまでの弊害を一掃して、価格をしっかり定め、手軽に来場いただくようにする」と、あいさつ文を載せた。弊害とは、芝居劇場の若い衆や茶屋などへの「心付け」などといった慣習であろう。文助の新しい桜座経営への並々ならぬ意欲がわかるようだ。
おそらく甚三郎は大正に入ってから、桜座の経営を継いだ。それがどうして大和座を立ち上げたのかは分からない。大正9年には桜座で、東京歌舞伎の大一座を呼んで上演している。その翌年が大和座の開業である。もしかしたら、新劇や活動写真(芝居と演するようになる)に軸足を移さざるを得なくなった桜座に魅力を感じられなくなったのかもしれない。

大和座の理想と現実

大和座のこけら落としには、東京の守田勘弥一座を招いた。つまりは伝統的な歌舞伎芝居である。翌大正11年は8月に再び守田勘弥一座、9月には市川猿之助・八百蔵・小太夫の東京大一座を呼んでいる。歌舞伎の古典的名作の上演は、翌年ぐらいまでは続いたようである。甚三郎の理想が形になったといえるかもしれない。
しかし、現実の経営を考えると歌舞伎だけでは苦しい。大正11年の大和座興行を順に見てみよう。
歌舞伎(5日間)→奇術(松旭斎、5日間)→新派劇(藤井二郎・中村翠娥一座、1日間)→新派劇(藤井・中村一座、1日間)→歌舞伎(5日間)→女義太夫(「天才美音少女」竹本昇来演、1日間)
もはや、歌舞伎芝居をロングランで上演できる時代ではなくなっていた。そして、昭和初期には芝居劇場自体の経営が成り立たなくなり、大和座も他のご同業もひっそりと消えていった。

ページの先頭へ戻る

 

その9.江戸時代の武田氏館跡

館跡(やかたあと)の利用法

天正9年(1581)の暮、武田勝頼は慣れ親しんだ躑躅(つつじ)が崎の館を捨て、新府城へ移った。翌年に武田氏は滅亡してしまうが、その後の領主によって躑躅が崎の館跡は修復され使用される。ところが、一条小山(こやま)に新しく甲府城が築かれると、甲斐の府中はそちらに移り、町も新しく開発されることになった。館跡周辺は、武田家臣の屋敷や寺社などの跡が空き地になる。そこで開墾に従事させるために人びとを招きよせ、日影組などの五所に住まわせ、1,000石余りの村高を定め古府中村が成立した。かつての中心街が村落とされたのである。
そして、武田氏館跡は「古城(こじょう)」と呼ばれるようになる。当時は、武田の史跡としてアピールする、何らかの整備をする、という発想はあまりなかったようである。信玄の法号にちなむ法性(ほっしょう)大明神の小さな祠(ほこら)があったぐらいだ。地元の古府中村の「明細帳」(江戸時代後期のもの)には、次のようなことが書いてある。
古城の範囲は東西150間(約273m)・南北106間(約125m)で、「東曲輪(くるわ)」「中曲輪」「藪(やぶ)曲輪」の3区画に分かれる。そのうち、藪曲輪は公有地である「御林(おはやし)」に指定され、村びとは年間銭700文(今の感覚だと1~2万円ぐらいか)を納めて、肥料用の落葉や下草を採っている。
江戸時代中頃にはすでに古城内に御林があり、やたらと立ち入りができなかったらしい。そして、藪に生えている竹は、切り口が割菱、つまり「武田菱」の形をしていたという都市伝説めいた話が伝わる。堀の水も田んぼの灌漑(かんがい)に使ったとも言われ、地元住人にとって古城は、武田氏を偲ぶというよりも、生活に密着した史跡であった。

館跡の自然

江戸時代の古城には、ときたま他国から文人や武士も訪れることがあったが、一部を御林に指定したとはいえ、全体を史跡として管理していたわけではないので、けっこう荒れてしまっていたらしい。それでも天守台に登れば、南方の眺望が素晴らしく、それなりに四季の景色が楽しめる名所だった。ただ、この天守台付近には年老いた狐が棲(す)んでいたとも言われ、雨が降ると大蛇が出現すると噂された。ほとんど妖怪の住処(すみか)扱いである。
しかし、堀にはハヤやフナ、そしてウナギが泳いでいた。かなりの大物もいたらしい。武田家臣の長坂釣閑(ちょうかん)の屋敷跡と伝わる「長閑堀」にも魚はいた。ただし、みな「一眼」と不思議な話になっている。
かつて、武田三代がその悲喜こもごもをつむいだ躑躅が崎館は、江戸時代の人びとにとっては、史跡というよりも、城下からあまり遠くない所で、自然を感じられるスポットと思われていたようだ。館跡に神社を建立して、信玄を祭る…この実現は、大正時代まで待たなければならなかった。
武田氏館跡(武田神社)から南方面を眺める武田氏館跡(武田神社)から南方面を眺める

ページの先頭へ戻る

 

その10.タタリからマツリへ、信玄火葬塚の整備

「魔縁塚(まえんづか)」と呼ばれて

甲府市岩窪町の「信玄火葬塚」は、いつからそのような場所とされて来たのだろう。柳沢家の甲斐領有時代、近くに永慶寺(えいけいじ)が建立され、この時は信玄の墓所として整備されたという。江戸時代の中頃には円光院の近くの畑に信玄火葬の跡があると紹介されているので、この頃までには「信玄火葬の場所」という認識が人びとにあったと言えるだろう。ただ、そこは「魔縁塚」とも呼ばれる心霊スポットでもあった。現存しないが、「甲州魔縁塚縁起」なる書物には、この塚を犯すとたたりがあるので、地元民は決して近づかない、と書いてあったらしい。これだけでは具体的なことは一切分からないが、文政13年(1830)の「甲駿道中之記」には、次のようにある。
“昔、地元民がここに金が埋まっているとして、掘りに出かけた。そうしたら、急に大風が吹き、大地が揺れた。その後、家に帰って高熱を出し、死んでしまう者が多数出た。”

甲府代官・中井清太夫が発掘調査?

安永8年(1779)春、甲府代官・中井清太夫は信玄の徳をしのぶため、火葬塚伝承地(魔縁塚)に石碑を建てようと土を掘り返した。やがて地下2丈(約6m)から石棺が出てくる。その棺には骨片が入っていて、また周囲の土から灰が検出された。これで火葬地であることが確認され、石棺その他を埋め戻し、その上に新しい石碑を建てたという。
実際は火葬塚に対する清太夫の関与は不明である。ただ同じ年に、有志(武田浪人など)が50余名の協力を得て墓碑を建立したことが伝わっている。当時、幕府の甲州枡の廃止方針に対して、甲斐の人びとは反対運動を繰り広げていた。「信玄が定めた甲州枡」を守ろうとする甲斐の人びとの思いが、信玄の火葬塚整備につながったのかもしれない。

立派な廟所(びょうしょ)に

その後、火葬塚は囲いも破れ、荒れた。灌木(かんぼく)が生い茂り、牛馬が石碑に糞尿をひっかけるような有様になったらしい。そこで、天保6年(1835)、火葬塚再整備の声が上がる。武田浪人や由緒の者が中心となって動き、寄付金として甲金116両2分(現在の1千万円程度)が集まった。157名が寄付に応じ、そのほとんどは武田浪人だったが、市川大門村の「御用紙漉(かみすき)」7名も甲金3両を出した。天保11年に竣工した火葬塚は、3間(約5.4m)四方に盛り土をし、高さ3尺(約90cm)の石垣をめぐらせてあった。5段の石段を上った先には、唐破風(からはふ)付の屋根を有する門を設ける。墓石は台石を3重として、高さは5尺6寸(約170cm)あった。翌天保12年には、上棟式と祭礼が行われ、火葬塚は信玄の霊を祀る廟所として、体面を新しくしたのである。
やがて、信玄卒去の4月12日に、恵林寺・大泉寺で「機山公祭」が行われるようになると、火葬塚にも参詣者が群れをなすようになる。そして、現在も人びとが信玄について思いをはせることのできる「よすが」として、火葬塚は大事にされているのである。

ページの先頭へ戻る

 

その11.洋食屋がナウい

牛肉を食べよう

記念誌『甲府歴史ものがたり』5-11「明治の食べもの新商売」では、明治になってからの、肉食のすすめや牛肉商売について書かれている。新政府は明治2年(1869)、東京に築地(つきじ)牛馬会社をつくり、牛肉の販売・普及に力を入れる。それは国民の「身体」を改善するという近代化政策の一環であった。そして、人びとは牛鍋やすき焼きを好むようになる(岡田哲『明治洋食事始め』)。
明治27年(1894)の「山梨繁昌(はんじょう)明細記」を見てみよう。これには県内のさまざまな店が、新聞の三行広告のような形で紹介されている。この当時、甲府桜町に牛肉店の中村屋、牛肉・料理の吹寄樓(ふきよせろう)、牛肉卸(おろし)小売商の桜花亭が店を構えていた。このうち、吹寄樓の主人は多門伝八郎なる人物である。この人、かつては甲府勤番士で、維新直後は甲府城を守る護衛隊に編入された。その後、どのような経緯で吹寄樓を開いたのかは分からない。ともかくも牛肉割烹(かっぽう)店として昭和初期まで営業していたらしく、それなりの「名店」だったのだろう。

衣替えする牛肉店

年号は分からないが、下連雀(れんじゃく)町の菊島茂平(牛肉渡世)と春日町の開化亭(牛肉煮売業)、この2つの料理屋の広告が残っている。4月下旬、そろそろ暑い気候になるため、牛肉料理はお休みするというものだ。そして、メニューの変更を知らせている。菊島はてんぷらとお茶漬け・すし・どじょう鍋・ちらし五目・肴(さかな)類、開化亭はご飯付き大蒲焼(かばやき)・丼めし・どじょう鍋・肴類といったところ。牛肉は鍋で冬場に食べるものと普通に思われていたのか、保存上の問題なのか、とにかく柔軟な料理屋の対応だ。オールシーズンの食文化を生きる現代より、街中の店さえも季節の移り変わりに敏感だったということか。

桜町の洋食屋

西洋料理の店が開業し始めた明治当初、人びとはナイフとフォークで口の中を血だらけにしたり、スープを皿から直接飲もうとして胸やひざに飛び散らしたりしたらしい。明治20年代になると、西洋風も十分「消化」できるようになったらしく、日本の食文化とミックスさせた「洋食」が広まる。先の「山梨繁昌明細記」には、桜町の長養亭(西洋料理・即席料理)と開峡樓(西洋料理・玉突)が紹介されている。
長養亭は明治16年(1883)開業、7品のコースがあった。ただし、1品ごとの「価格表」を掲示していると広告でうたっており、意外にリーズナブルなのが「売り」か。なお、経営者の渡辺弥吉は明治23年、太田町公園に甲府ホテル望仙閣を開業している。
開峡樓は大正7年(1918)当時、洋風の3階建で、内部は日本間と西洋間両方があった。メニューも和洋折衷(せっちゅう)だったが、特筆すべきは地下にビリヤード場があったことだ。甲府の若者にとっては、開峡樓で洋食を食べ、キューをあやつるのが「トレンディ」だったのかもしれない。

桜町通り

ページの先頭へ戻る

 

その12.鑑札は大切に

免税の商人たち

平成18年(2006)、中道町と上九一色村の北部が甲府市と合併した。甲府と駿河を結ぶ最短ルートの中道往還が通るこの地域には、江戸時代、広い商圏を持つ商人がいた。
時は武田が滅亡して、本能寺の変の後、天正10年(1582)の7月にさかのぼる。北条氏との対抗上、徳川家康は甲斐をおさえる必要があった。その時、中道往還から入国するのだが、右左口(うばぐち=甲府市右左口町)と九一色郷が家康一行のために大活躍した。右左口の人たちは、村役人をはじめとして、馬47頭と人足多数が、駿河の人穴(ひとあな)村(富士宮市)まで迎えに行き、荷物の運搬などで活躍する。中道往還は、現市域の古関(ふるせき)と右左口で阿難(あなん)坂・迦葉(かしょう)坂という難所を越える。この時、水量が増していた芦川の渡河に、古関の百姓が「大御用」を見事に勤めた。家康は右左口と九一色郷に「諸役免許」、つまり商売上の税の免除を公に保証する朱印状を下して、彼らの働きにこたえた。

鑑札の管理

家康の朱印状を右左口・九一色郷の人たちは最大限に利用する。どこの宿場でも馬を取り替えたり、通行税を払ったりすることを免除される特権を手に入れ、さまざまな荷物の輸送で稼ぐ。その朱印状の効力の証明になるものが鑑札である。
九一色郷では、寛永18年(1634)、地域の9か村を支配する渡辺囚獄佑(ひとやのすけ)の手に朱印状が渡り、引替えに642枚の鑑札が交付されたという。元禄15年(1702)以後は、支配の交代の度に鑑札を更新することになった。右左口では鑑札を馬札と言い、名主が管理して、希望者は借りて馬に付けるシステムだった。

消えた鑑札

鑑札は更新の時など、何度か数をチェックされる。九一色郷の1つ梯村(かけはしむら=甲府市梯町)では元禄15年に交付された60枚のうち3枚が火災で焼失、18世紀初頭の柳沢吉里の領知時代にも60枚が更新されたが、5枚が無くなっている。3枚は火災で焼け、1枚は持ち主が夜逃げしたため行方不明、1枚は駿河で川に流してしまったという。その後、上飯田代官亀田三郎兵衛の時には、世帯増加のため63枚が下されたが、2枚が甲府魚町の宿舎で焼失してしまった。
右左口では安永2年(1773)に馬札数の調査が行われ、所在不明の札が39枚にのぼった。また寛政11年(1799)には盗難にも遭う。この年6月、右左口のある百姓が桑商いのため馬札1枚を借りて、田中宿(どの街道の宿なのかは不明)に泊まった。たまたま寺尾村(笛吹市)の者2人・油川村(甲府市か笛吹市)の者1人と同宿になり、酒を飲んで盛りあがったらしい。そして馬札はいつのまにか盗まれたらしく影も形もなかった。この者は、右左口の村役人に1か月以内に見つけ出して村にもどさなければ鐚銭(びたせん)10貫文の罰金を約束させられる。現在の感覚だと10~40万円くらいだろうか。どんなに大切なものでも無くすときは無くす。これも人間がつむぐ歴史の1コマなのである。

中道往還「右左口宿」

ページの先頭へ戻る

 

その13.「女二人」は元祖リケ女?

女子の教育

ものの本によれば、明治8年(1875)は男子の小学校就学率が50%を超えた年だという。しかし、女子は18.7%にすぎず、まだまだ教育面での男女格差は大きかった。
明治19年(1886)、政府は帝国学校令・師範学校令・中学校令・小学校令と一連の学校令を定め、日本の教育制度を整えた。同じ年、山梨県下の家塾・寺子屋の調査が行われた。その報告書は完全に正確というわけでもないが、当時の教育の一端を垣間見ることができる。甲府の町場に限ると、江戸時代後期から明治維新まで存続した11の家塾・寺子屋が数え上げられている。男女別の生徒数も出ており、調査した時期にバラつきがあるものの、すべて合わせると男子は1,052人、女子は753人となっている。男女比は3対2となり、この数字をどう解釈するか、だ。

女子が習うこと

甲府の町場の家塾・寺子屋では、ほとんどが「読書・習字・算術」を教えていた、つまりは「読み・書き・そろばん」である。さらに教科書で「四書」を使っているところも多い。「四書」とは、『礼記(らいき)』中の「大学」「中庸(ちゅうよう)」と『論語』『孟子(もうし)』である。生活する上で必要な学問のほか、「忠義」や「孝行」といった儒学の道徳も教えていたのである。
泉町(現丸の内・相生)の「汎愛義塾」では、入門時は男女ともに「平仮名」や「いろは」、「甲府町名」などを習うが、それ以上のレベルになると、男子は「商売往来」など、女子には「女子教訓」などのコースに分かれた。江戸時代の女子教育によく使われた「女今川」「女大学」も教科書にあげられている。女子は「夫によく仕えろ」といったことを、子どものころから教え込まれるのである。

数学塾の女子

鍛冶町には文化元年(1804)から「一二堂」という塾があった。ここは報告書に載る11の家塾・寺子屋の中では唯一の理系塾である。ここでは関流の算術を教えていた。関流とは、甲府徳川家に仕え、日本の数学・和算を大成した、関孝和(せきたかかず)の流れをくむ学派である。教科書は「算法通書」「量地図説」「地方(じかた)大成」「天元指南(てんげんしなん)」「点竄(てんざん)手引書」。ここでは天元術や点竄術も学べたということだ。天元術は、算木(さんぎ)やそろばんを使って一次方程式を解く方法。これを孝和が改良して、道具を使わずに高次方程式を解けるようにしたのが点竄術である。いずれにしても、日常の必要を超えていると思うが、「量地」「地方」は測量技術の本で、実務的な内容だ。「地方」は発行当初、専門知識の流出を嫌った幕府代官が絶版にさせたという。
明治4年(1871)当時、この塾には12人の生徒が学んでいた。標準の就学期間が約1年と非常に短く(他は6~7年)、やはり特殊な塾と思われたのだろう。ただ、生徒には「女二人」が含まれている。「女大学」がまだ当たり前の時期に、数学と土木工学の習熟を志した彼女たちは、甲府の「リケ女」のはしりかもしれない。

ページの先頭へ戻る

 

その14.甲府勤番士のお年賀

勤番士、初めての正月

享保9年(1724)7月、甲府勤番支配が設置され、甲府は幕府の直轄となり、江戸から200人の勤番士が赴任した。そして年が明けて、江戸育ちの彼らは初めて甲府の正月を迎える。彼らの主な職務は甲府城の警備なので、元旦でも当番交代がある。朝6ツ(午前6時ごろ)、この日ばかりは熨斗目(のしめ)・麻上下(あさかみしも)といった礼服着用で交代の式に臨んだ。当番以外の勤番士もぞくぞくと登城し、5ツ(午前8時頃)には甲府城の二ノ間・三ノ間に勢ぞろいする。追手(おうて)勤番支配の興津能登守が一ノ間より登場し、年頭のあいさつとなった。
この儀式、どのくらい時間がかかるか勤番士には気になるところだろう(式のあとに年始回りがあるため)。安永9年(1780)の場合は、9ツ(正午頃)過ぎに済んだという。
城内でのあいさつ後は年始回りが忙しい。幕末頃の話だが、それなりの身分の屋敷には、礼装した玄関番がいて主人に取り次いでくれたという。しかし、大抵の家には玄関番がいなくて、大声で来訪を告げなくてはならず、随分「なげやり」だと、徽典館(きてんかん)学頭の宮本定正は嘆いている。
元旦から出勤する勤番士は大変だが、それでも5、6日ころになると、直属の上司や組頭から自宅に呼ばれ、祝儀の振る舞いがあった。雑煮に吸い物に酒、それを愉(たの)しみながら初めての甲府の新春を寿(ことほ)いだのである。

「働き方改革」なのか?

年始のような儀礼は毎年同じようにおこなわれ、ルーチンと化すのであるが、それでも微妙に変わったりする。3が日の当番勤務は熨斗目・麻上下を着用、4日からは平服でというドレスコードが定められていた。寛保2年(1742)、3が日は夜5ツ(午後8時頃)まで礼装で勤務すると決まっていたのが、暮6ツ(午後6時頃)までとなった。この約2時間の礼服着用「時短」が何を意図したものなのか分からないが、堅苦さの軽減が目的だとしたら、一種の「働き方改革」のはしりか?

翻弄される振る舞い

享保14年(1729)の年始より、組頭が振る舞う雑煮が廃止になった。吸い物と酒、肴は3品程度でと決められた。当時は将軍・徳川吉宗による享保の改革政治が進行中、大きな課題として財政難や武士の窮乏などがあった。そこで倹約の命令を出す。支出を抑えることにより、武士の家計、ひいては幕府財政を好転させようというのである。享保16年の倹約令は主に服装や贈答を対象にしている。いわく、衣類は古くなっても、見苦しくなっても着られるうちは着続けよ。新しく仕立てること無用。いわく、親族中の家督継承や婚姻などへの贈答はこれまでの半分とせよ。祝儀の料理も簡略に。
上の方針がこれでは、勤番士のお正月の楽しみであろう振る舞いも規模縮小とならざるをえない。さらに享保20年の年始は吸い物さえなかった。この場合は前の月に城内から金1,000両以上が盗まれているので致し方なしといったところか。

ページの先頭へ戻る

 

その15.私、消毒されちゃうの?

感染症の苦しみ

例年、冬になるとインフルエンザが流行る。なにしろ元凶が肉眼で見えない存在だけに対処も大変だ。グローバルに流行したインフルエンザの元祖とされるのが、大正7年(1918)年から翌年にかけて世界中に広がったスペイン風邪である。甲府でも大正9年1月末には3,000人の患者を数え、死者も多かったという。

感染症の原因がはっきりと分からなかった時代に、なかなか効果的な対処は難しかった。明治7年(1874)と翌年の3月上旬、甲府では馬脾風(ばひふう)、つまりジフテリアが流行った。山梨県病院が示した対処法は、薄着をしないで頭と首を冷やさないように呼びかける程度だった。明治10年8月には、隣の長野県でジフテリアの流行を見る。夜は裸で寝るな、風雨の中を歩き回るな、などと「冷え」への対処とともに、患者の息を嗅がないようになど、「感染」予防の考えも広まり始めていた。

隔離と消毒

明治10年ころから、感染症への対処として隔離と消毒が行われるようになった。明治13年にコレラ・腸チフス・赤痢(せきり)・発疹(はっしん)チフス・ジフテリア・痘瘡(とうそう)が法定伝染病に指定されると、罹患(りかん)したとの届け出、隔離治療・消毒は義務になった。届け出れば「避(ひ)病院」に入院ということになるが、生きて帰れる所と思われていなかったらしく、病気を隠す患者(とその家族)が相次いだ。当時、感染症発生への対応は警察の仕事であり、患者に優しくない扱いもあったようである。甲府では消毒の担当者が、患者が使った道具類・衣服・寝具はもちろん、その家の家具・畳・床板・天井板までひっぺがして燃やしたという。

これで大丈夫、…なのか?

ある場所でコレラが流行ると、そこからやって来る旅行者に疑いがおよぶ。明治12年、山梨県内の旅館に次のような布達が出された。旅館は薫蒸(くんじょう)室を造り、コレラ流行の地方からやって来た宿泊客を荷物ごと10分ほどその部屋で薫蒸する、もしくは、戸外で消毒液を吹きかけること。ここで使われるのが石炭酸、つまりフェノールである。フェノールは今でも殺菌や防腐に使われたりするが有毒だ。部屋を閉め切り、フェノールを土鍋で煮て蒸気を出すのであるが、感染症予防の前に、何かしら別の病気にかかりそうなやり方である。
1か月後、この方法は効果がないとして、別のもので薫蒸せよとお達しが出た。それは硫黄(いおう)である。さすがに高価な服が変色する恐れありとして、場合によっては石炭酸の蒸気でもよいとしている。また、発火する危険ありと注意を促している。結局は、希薄した石炭酸を吹き付けて、すぐさま入浴させても可と、厳しいのか、ゆるいのかよく分からない県の方針である。消毒も新技術の1つとして初めは試行錯誤だったのだろう。

ページの先頭へ戻る

 

その16.地産の魚を賞味する

甲斐の名物

江戸から甲府の学問所・徽典館(きてんかん=山梨大学のルーツ)に赴任した宮本定正(さだあき)という学者先生は、嘉永3年(1850)、エッセイ集「甲斐の手振(てぶり)」を書いた。その中で、先生、「ジビエのほか、鮒(ふな)・鯰(なまず)・鰌(どじょう)・鮎(あゆ)を飽きるまで食べた」と告白している。さらに定正は、鰌と鯰を甲斐の名産と言い、荒川・笛吹川・釜無川の鮎は大きくて「絶品」と言う。また荒川の鮠(はや)を蚊針(かばり=擬餌針)で釣り、煮付け・酢の物・天ぷらにするとおいしいとしている。

江戸に聞こえた名物鮒

甲府城下の南東にあたる蓬沢村は、となりの西高橋村と同じく窪(くぼ)地であり、濁川の水がたびたび流れ込んで、湖のような状態になった。それは周囲1里余り(約4km)の大きさとなり、村びとは魚をとって生活の足しにしていたという。ところがここでとれた鮒は、江戸で「蓬沢鮒」のブランド名で知られるようになる。しかし、村びとは農耕地を開発する方向に動く。その願いにより領主(甲府徳川家)は治水工事を実施。堰(せき)をつくって、湖の水を抜いてしまった。約50年後には、かつての湖跡には少しばかりの池が残り、釣る気にもならない小さな鮒がいるだけとなった。しかし、鮒は他の場所にもいる。幕末の甲府城下でも堀や溝を普通に泳いでいたらしい。当然、食用となり、味噌汁にして飲むか酢に漬けて食べると下痢によいとされた。健康食だったのである。

VIPが愛した鮎

鮎は塩蔵の「黒漬」、または乾して縄に付けたものも賞味された。郡内地方の桂川産の「塩鮎」は、毎年8月、将軍へ献上された。また、江戸屋敷にいる甲府徳川家の殿さまも、たびたび甲府から「塩鮎」を取り寄せている。鮎は荒川・笛吹川・釜無川のものも悪くはなかったが、桂川の鮎はブランド力もあったようだ。甲府にも桂川産の鮎がたくさん入っている。とくに花咲(大月市)の鮎が最上級とされた。甲斐の鮎は鵜(う)を使って捕る方法もあったが、喜ばれたのは網で捕ったものだった。鮎に鵜が食いついた跡が残ると、そこから油が抜けておいしくなくなるらしい。

不思議な鰻(うなぎ)

現在、希少価値が上がっている鰻だが、幕末頃の甲府周辺ではそこいらに生息していた。甲府の鰻屋は仕入れにそれほど困らなかったのである。しかも、甲府産の鰻で「地前」と呼ばれたものは、身がしまっていて美味だった。甲府周辺から少し離れた所の鰻は味が劣る。しかし、信濃まで持って行って一晩、諏訪湖の水にひたせば「地前」と変わらない味になったらしい。水の成分とかが影響するのか?不思議である。
幕末の信立寺(しんりゅうじ・若松町)横にあった鰻屋は、江戸流の焼き方で客に出したという(つまり背開きにした蒲焼?)。しかし、どうやら鰻の「小串」なるメニューがあったらしく、それは頭を付けたまま焼いた。先生の定正も「これにはびっくりした」と感想をもらす。食文化は江戸流でありながら、甲府の個性もあったのである。

ページの先頭へ戻る

 

その17.お魚の不思議

赤い腹のハヤ

前回の外伝は地元の淡水魚を賞味することについて述べたが、今回はその淡水魚の不思議話である。かつて武田氏の城下町は、江戸時代には「古府」とも呼ばれた。宝暦2年(1752)に甲府勤番士・野田成方(しげかた)は、古府の田畑の中に信玄・勝頼に仕えた長坂釣閑斎(ちょうかんさい)の屋敷跡があり、「釣閑堀」という水場になっていたことを伝えている。そして、そこに棲(す)む魚はすべて「一眼」という。武田氏の滅亡と運命を共にした釣閑斎の怨念がなせる業か?
赤い腹のハヤについても伝説がある。実際は生殖期に腹部が赤くなるウグイのことかもしれない。しかし、甲斐国には元々そんな魚はいなかったらしい。正徳・享保年間(1711~1736)に、「悪少年」の折平なる者を火罪に処し、その灰を荒川に流したら、ハヤがたちまち化けたという。

はじめまして…とスッポン出現

文化11年(1814)に幕府に献上された『甲斐国志』は、当時としては高レベルな調査・研究を基に書かれた甲斐国の百科事典である。その中で、甲斐の魚について気になることを記している。「宝暦年間(1751~64)鼈(すっぽん)はじめて生じ、安永年間(1772~81)鯉魚(りぎょ)が育ち、寛政年間(1789~1801)鯰(なまず)が生まれた」。そもそも甲斐にスッポンとコイとナマズはいなかった(!)。それが江戸時代の中ごろから、ぼちぼち発生したというのである。
このうち、スッポン(魚じゃないけど)については野田成方の証言もある。享保10年(1725)ごろ、勤番士の島田甚五左衛門は庭の池にスッポンを放した。それがどうしたわけか、片羽町(現在の中央・相生)から二ノ堀に落ちる。そして姿を見なくなったと思ったら、盆地中央部の中郡(なかごおり)で繁殖するようになったという。

いたのか?いなかったのか?

コイとナマズには謎が残る。なぜなら、それらが発生する前の時代に、成方は「鯉と鯰は国中にいる。中郡あたりにはたくさんいる」と言っているからだ。この謎の真相は今のところ分からないが、『甲斐国志』は、彼らの発生の様子、および原因について科学的?な観察と考察を加えている。
(1)はじめ、国中の川・沢・沼・淵・野溝で、常に他の水と交わらないところまでにも、忽然(こつぜん)として一時に2寸(約6cm)ばかりのものが発生。
(2)年が過ぎて、水の浅いところでは死に絶えて、深いところでは成長した。後になっていなくなるということはない。
(3)原因は「気運」の移り変わりによるものであろう。
つまり、気候変動の結果、甲斐にスッポン・コイ・ナマズが発生したということだ。当時、地球規模で寒冷化の傾向がみられた。そのため、フランスでは小麦が不作となり、革命の一因ともなった。甲斐でもまさに「水面下」では、大きな変動の時代を迎えていたと言えるかもしれない。

ページの先頭へ戻る

 

その18.火事場に急行せよ!

発掘された「掛矢」

魚町から出土した「掛矢」

平成30年(2018)、甲府城下町遺跡の魚町(うおまち=中央5丁目)地点で発掘調査が行われた。以前は池だったと思われる区画から、木でできた大きなトンカチの頭みたいなものが見つかった。これは「掛矢(かけや)」という木製のハンマーの一部である。この場所からは、炭化した材木も大量に出てきた。つまり、過去に火災があったことが分かる。掘り出された掛矢もおそらく火災に関係した道具であろう。江戸時代の甲府は、しばしば火災に見舞われている。万治3年(1660)、享保12年(1727)、享和3年(1803)には後世の語り草になるような大火があり、魚町にも大きな被害をもたらした。

火消道具あれこれ

火はいつの時代もコワいので、各時代、それなりに消防の対策が練られる。万治の大火以前の甲府では、町に火災が発生した場合、住民は手桶(ておけ)持参で現場に行き、消火に当たることが定められた。大火後、火消人足の出動が制度化され、はしご・釣瓶(つるべ)・円座(えんざ)・とび口・手桶・纏(まとい)といった火消道具を、町に割り当てられた人足がかついで火災現場に急行した。釣瓶で井戸水をくみ出し、手桶に入れてかけたのだろうか。円座はワラの座布団だが、あおって火勢をコントロールしたのかもしれない。この後も熊手や鎌やのこぎり、そして掛矢が火事場に持ち込まれる。
江戸時代の中期からは水鉄砲、後期にはポンプ式の竜吐水(りゅうどすい)もお目見えする。しかし、大量の水が必要になる「冷却消防」が主流になるのは明治以降である。それまでは火元の周りの建物を壊して燃え広がらないようにする「破壊消防」がごく普通の消火方法だった。水は燃えにくくするために屋根にかけるなどの補助手段だった。だから火消道具は破壊に適したものが使われ、家屋破壊のプロである「鳶(とび)」が火事場で重宝された。魚町の掛矢は破壊消防の時代を物語る歴史の証人なのだ。

屈強な火消人足

江戸時代の中ごろ、甲府にやって来た勤番士・野田成方(しげかた)は語る。
「火災が発生すると、一つの町から6~7人の火消人足が出る。彼らは横約45cm・縦約150cmのカゴに掛矢などの火消道具を持って駆けつける。以前、東青沼村(現青沼・朝気)の火災の折には、木村重右衛門や入舟惣八などといった者が大活躍して、勤番支配からご褒美をもらった。これ以前の火消人足には老人や15歳以下の少年もいたが、煙にむせんだり、火を恐がって近づけなかったりと役に立たなかった。今では「剛強」の者を人足に選んでいる。
木村重右衛門は、甲府在住の相撲行司である。木村を名乗っているので、おそらく江戸相撲の行司や年寄衆と関係を持ち、甲州の相撲取りに影響力があったのかもしれない。入舟惣八も多分、通り名だろう。任侠(にんきょう)の世界の住人かもしれない。纏の重さは一般的に15~20kg前後と言われるが、それを振り回せる屈強な人足にとって、火事場は自分の男ぶりをアピールできる場でもあった。

ページの先頭へ戻る

 

その19.巴座のサービス戦略

細田才次郎という男

明治35年(1902)、三日町(現在の中央4・5丁目)の「寄席・巴亭」が「劇場・巴座」としてリニューアルされた。翌年8月には市川才三郎一座を招き、株式会社として杮(こけら)落としを行う。座主は細田才次郎だ。
才次郎は、甲府勤番士・筧幾五郎(かけいいくごろう)の子で、ゆえあって細田家に養子に入る。明治維新後は刑事になり、相当優秀だったらしいが、冤罪で投獄されてしまう。結局は東京で真犯人が捕まり、身の潔白が証明されたのだが、この体験は才次郎の心に影響を及ぼしたのであろう。周囲の復職の勧めも聞かず、「にぎやかで愉快な生活がしたい」と、演劇場の経営に手を出すのである。

サービスさせていただきます

当時の甲府の演劇場は「桜座」が一番人気で、巴座は東京歌舞伎の有名どころを舞台に上げたが経営は苦しかった。株主がどんどん手を引く中、大正へと元号が変わるころには、才次郎の独占経営状態になる。ここで才次郎は改革に着手する。それまでの演劇場には「出方(でかた)」という客を案内し、何かと世話をする男衆がいた。慣行として客は出方に心付けを払わなければならなかった。
才次郎は、東京の帝国劇場の制度にならい、男子の出方を廃止、女子の案内係に切り替えて、案内を希望する客だけが料金を払う仕組みにした。心付けがなくなったので客にとっては明朗会計となる。とにかく客を入れなければ、演劇場は成り立たないのだ。
開業当初から巴座では先行の桜座に対抗するためか、さまざまなサービス戦略をとる。明治36年(1903)の9月興行では入場料・敷物代など込々で、さらに寿司が付く「観覧券」を売り出した。大正11年(1922)の盆芝居では、初日に限り、先着500人に鰻(うなぎ)弁当と「蝶矢サイダー」をサービスした。鰻にサイダーという取り合わせはいかがかと思うが、当時、太田町の今井商店が製造していた「蝶印美人サイダー」なる飲み物が流行っていたらしいので、巴座にしてみれば精一杯のサービスだったのだろう。

時流の中で…

明治・大正・昭和と時代が進むと、歌舞伎芝居から近代劇や活動写真(映画)に人気が移る。巴座も歌舞伎一辺倒ではなく新機軸を打ち出してゆく。例えば、日露戦争後、巴座では芝居の合間に小松商会の活動写真を映すようになった。作品は『日露激戦勝利の実況』や『嗚呼(ああ)軍神広瀬中佐』などで、これが甲府初の映画定期上映だという。大正2年(1913)、評論家であり演出家の島村抱月(ほうげつ)が新劇俳優・松井須磨子(すまこ)らと芸術座を結成して近代演劇の普及に乗り出した。巴座は大正4年に彼らを招いて、近代劇を甲府の観客に提供した。『復活』で須磨子演じる「カチューシャ」が大評判になったという。
ただこれらの新機軸は、桜座でも同じように取り組んでいた。活動写真に押されて甲府の演劇場全体が斜陽となり、巴座は昭和の初めに姿を消した。跡地には映画館・キネマハウスが建った。

ページの先頭へ戻る

 

その20.湯村温泉の底力

とにかく効くよ!

湯村はアルカリ性の温泉で、無色透明・無味無臭の実に気持ちの良いお湯である。その効能は古くから知られ、天文17年(1548)7月の塩尻峠の合戦(vs小笠原長時)で負傷した武田晴信(信玄)が湯治に訪れている。晴信はこの年の2月に上田原でも村上義清と戦い負傷するという、なかなかハードな目にあっており、心身の癒しを湯村に求めたのであろう。
江戸時代の中ごろには、湯村温泉は「一廻り」(7日間)入れば、皮膚の疾患がたちどころに治り、腫れ物や切り傷にも効く「名湯」として知られていた。また、湯村の湯は人だけでなく家畜も癒した。田んぼの中に「馬の湯」と呼ばれた場所があり、その由来は次のように伝わる。
「湯村の人びとは、使用後の温泉の湯を溝で村境に流していた。ところが隣の村が溝をせき止めたので、湯村の畑がお湯びたしになってしまったことがあった。そのいさかいの間、農耕馬が気持ちよさそうに湯に浸かった。」
実際には、温泉の余り湯を引き、ぬるい湯に馬が脚を浸して、疲れをとったという。

環境もいいよ!

明治28年(1895)の案内記には、湯村の良いところが次のように紹介された。
(1)御岳(昇仙峡のこと)の景勝まで約3里(12km)で、歩くと適宜な運動となる。道路も広く交通が便利なこと温泉中の第1位である。
(2)南の山を一望でき眺望がすばらしい。暑さを避けるにはもってこいの地である。
このように、甲府中心部からそれほど遠くなく、交通の便もよく、それでいて心を落ち着けることもできる静かな環境だったのだろう。実際、戦前には太宰治などの文人が逗留している。戦後は周囲の宅地化が進み、都市の温泉という風情になった。しかし、史跡や寺社、湯村山など、歩き巡る楽しみは今でも失われていない。

ちょっとコワいよ!

湯村には妖怪も出た。江戸の旗本・多田三八(モデルは武田24将のひとり多田三八郎か)は、湯村を目指して天目山の麓を通りかかった時に天狗に襲われた。三八は抜刀し、天狗の翼を切り落とす。湯村では背中に大きな傷跡がある大法師と同宿となり、正体を見破った三八は浴場でその大法師に切りかかるも、湯村山のほうへ逃がしてしまう。これには、後日談があり、常に霧をまとった「異人」が温泉にやって来ては、時々、「我は多田三八に傷つけられた鬼だ」と言って空を飛んでいたという(いつの間にか天狗が鬼になっている)。
犯罪者も来た。盗賊が入湯したことがある。湯から上がった移動中であろうか、千塚・塩部両村の者がその盗賊を取り押さえたという記録が残る。おそらくはコソ泥ではなく、指名手配レベルの盗賊だろう。湯村温泉には、さまざまなモノを呼び寄せてしまう磁力(魅力)があったと言えようか。

ページの先頭へ戻る

よくある質問

「特によくある質問」にお探しの情報はございましたか?
上記以外のよくある質問が掲載されている「よくある質問コンテンツ」をご活用ください。
ご不明な点は、よくある質問内のお問い合わせフォームよりご連絡ください。

よくある質問入り口

お問い合わせ

生涯学習室歴史文化財課文化財活用係

〒400-8585 甲府市丸の内一丁目18番1号(本庁舎9階)

電話番号:055-223-7324

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?
このページの情報は見つけやすかったですか?
このページの情報はわかりやすかったですか?

ページの先頭へ戻る