更新日:2020年9月28日

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望郷の歌人 山崎方代

方代の人生

山崎方代
▲歌人・山崎方代(故 富永光子さん提供)

方代(ほうだい)は大正3年11月1日、右左口村で8人兄弟の末っ子として生まれました。
「方代」という名前は、長女と五女以外の子どもを亡くした両親が「生き放題、死に放題」にちなんで名付けたといわれています。
15歳ごろから作歌を始め、山崎一輪(いちりん)の名で新聞や雑誌に投稿していました。
昭和12年、母が亡くなり、翌年、父と共に姉の嫁ぎ先(横浜)へ移りました。
その後、太平洋戦争で右目を失明し、左目の視力もわずかに。
街頭で靴の修理などをしながら各地を旅したことから、「望郷の歌人」と呼ばれるようになります。
昭和47年から亡くなる昭和60年までの間は鎌倉に住み、いくつもの名歌を残しました。

方代生家跡

古道「中道往還」沿いの右左口宿、その中でも標高の高い上宿(わでじゅく)にあります。方代は、父龍吉、母けさの次男としてここに生まれました。
現在、生家跡は憩いの場として整備し、東屋から昔日を懐かしみ、方代の心に触れる場所となっています。また、「方代の里なかみち短歌大会」の歴代最優秀歌も掲示していますので、ぜひ訪れてください。

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 ▲骨壺の歌碑があります  ▲東屋をご利用ください

切なくて人間味あふれる歌

方代の歌は、口語体であることが特徴です。
自らを「無用の人」と言い、世間から離れて暮らしていた方代は、生涯独身であり、孤独で寂しい生活の中、ありのままの素直な表現でいくつもの歌を生み出しました。

  • ふるさとの右左口邨(むら)は骨壷の底にゆられてわがかえる村
  • 一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

人々を魅了し続ける方代

亡くなってから、高校の国語の教科書に作品が取り上げられるなど、死後30年以上経った現在も方代は注目を集め、多くの人を魅了し続けているのです。
右左口町を含め、中道地域には歌碑が26あり、全国から方代のファンが訪れ、毎年、命日(8月19日)を過ぎた最初の土曜日に菩提寺(ぼだいじ)である円楽寺(えんらくじ・右左口町)で方代忌が営まれています。

▲方代の歌碑(ほんとうの酒がこの世にありし時に父もよいにきわれもよいたり)

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