更新日:2011年10月1日

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首級牛蒡

(上帯那町 神宮司 光さんの話)

織田、徳川の連合軍に長篠の戦で大敗を喫した勝頼は、攻勢から守りに転じ、国内の防衛を固めた。新府城もその一つで、昼夜をわかたぬ突貫工事をおこない竣工を待ちかねて入城したものの、信州高遠城の落城の悲報に接し、入城したばかりの新府城から脱出を余儀なくされた。

自らの手で城を焼き払い、岩殿山を目ざして落ちのびたが、小山田右衛門に背かれ、天目山麓景徳院の境内で自刃して果てた。

幾多譜代の家臣に背かれ、最後には僅か四十余名の家臣しか従っていなかった。

勝頼の首級は、織田の家臣滝川一益によって甲府にもたらされ、善光寺で織田信忠の実検に供され、信州に出馬していた信長と市川に布陣していた徳川家康の実検を経て、京都の六条河原に晒された。

京都の妙心寺の南化和尚は、かって武田信玄と交わりがあったことから、勝頼公の首を請い受けて寺内に手厚く葬った。

このことを知った法泉寺の住職快岳禅師は、妙心寺の南化和尚から勝頼の歯髪を貰い、法泉寺に葬ろうとしたが、織田の目が光っていて甲府入りは危険であった。

快岳和尚は、一時の隠れ場所として、法泉寺の北方、帯那穴口の大馬籠の三上家を頼っていった。

ところが快岳和尚の動きに気づいた織田の家来は、和尚の後を追いかけた。歯髪が見つかりそうになった和尚は、三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中へ隠して難をのがれた。

織田の家来が立ち去った後、和尚は山奥の栗林の中へ庵を建て、勝頼公の歯髪をお守りしながら時節の訪れを待っていた。

信長が本能寺で滅ぼされ、徳川が甲府を采領するようにいたって、諸事武田家の遺臣にあたたかい政策をとったので、和尚は誰はばかることなく、境内に鄭重に葬った。

勝頼公の歯髪を縁の下に隠したという言い伝えのもとに、三上家では、以後、正月二日に法泉寺を訪れて寺の縁の下に牛蒡の束を投げ入れてから、新年のあいさつをするようになり、これを首級牛蒡(けこみごぼう)と呼ぶようになった。

今でも毎年一月二日には、住職家族をはじめ、年賀に訪れる壇信徒の方々にも牛蒡料理を供しているという話です。

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