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更新日:2016年5月26日

山崎方代

方代は、大正3年11月1日、右左口村(現右左口町)で8人兄弟の末っ子として生まれました。「方代」という名前は、長女と五女以外の子どもを亡くした両親が「生き放題、死に放題」にちなんで名付けたといわれています。

15歳ごろから作歌を始め、山崎一輪の名で新聞や雑誌に投稿していました。昭和12年、母が亡くなり、翌年、父と共に姉の嫁ぎ先(横浜)へ移り住みました。

その後、太平洋戦争で右眼を失明し、左眼の視力もわずかに。街頭で靴の修理などをしながら各地を旅したことから、「漂泊の歌人」と呼ばれるようになります。昭和47年から亡くなる昭和60年までの間は鎌倉に住み、いくつもの名歌を残しました。

方代の歌は、口語体であることが特徴です。自らを「無用の人」と言い、世間から離れて暮らしていた方代は、生涯独身であり、孤独で寂しい生活の中、ありのままの素直な表現でいくつもの歌を生み出しました。

亡くなってから高校の国語の教科書や映画で取り上げられるなどして、方代は注目を集め、現在も多くの人を魅了し続けています。

甲府市では、甲府市中道交流センターで方代の歌集や研究資料のほか、湯川晃敏氏(元日本写真家協会所属)から寄与された写真などを展示し、方代をわかりやすく紹介しています。

また、山梨県立文学館では、常設展示のほか平成6年と22年に「山崎方代展」を開催し、それまで未公開の作品や甲府市からの寄託資料、短歌仲間の秘蔵資料などが展示され、多くの見学者が訪ねました。


方代の命日は8月19日。毎年、菩提寺である円楽寺(右左口町)では命日を過ぎた最初の土曜日に、また、方代が生前親交を深めた瑞泉寺(鎌倉市)では9月の第一土曜日に方代忌が営まれています。

方代の年譜

略年表

1914(大正3)年

11月1日、山梨県東八代郡右左口村(現甲府市右左口町)に生まれる

1921(大正10)年

右左口尋常高等小学校(現中道南小学校)に入学

1931(昭和6)年

この頃、発句に親しむ

1934(昭和9)年

「山梨日日新聞」新年文芸で佳作に入選する

1936(昭和11)年

「あしかび」「水甕」「一路」に作品を発表

1938(昭和13)年

神奈川県にいる姉、関くまのもとへ父と共に移り住む。職を転々と変える

1941(昭和16)年

千葉高射砲隊に入隊。宇品港出帆。台湾、ジャワ島、チモール島へ進出

1943(昭和18)年

チモール島クーパンの戦闘で右眼失明、左眼視力0.01となる。野戦病院入院。退院後、再び戦場に出る

1946(昭和21)年

召集解除、病院船で帰還

1947(昭和22)年

傷痍軍人の職の訓練を受けて、街頭などで靴の修理をしていたといわれる。山下陸奥を右左口村に迎え、一路会員と歌会をする

1948(昭和23)年

岡部桂一郎らと「一路」を離脱する。
工人研究会を開催。「工人」創刊。静岡で工人創刊記念大会を開催。尾形亀之助「障子のある家」を読み影響を受ける

1950(昭和25)年

漂泊の旅に出る。山梨、静岡、名古屋、大阪、京都、奈良の歌仲間、歌人を訪ねる

1951(昭和26)年

この頃より神奈川県にいる姉くまのもとに落ち着く

1953(昭和28)年

「後期工人」創刊

1954(昭和29)年

「黄」(編集責任者 岡部桂一郎)創刊

1955(昭和30)年

第一歌集「方代」を自費出版

1958(昭和33)年

「泥の会」のメンバーと機関紙「泥」を創刊

1962(昭和37)年

「吉野秀雄日記」に方代の記事が現れ始める

1968(昭和43)年

横浜市戸塚区田谷に移り住む。家主、加藤家の農作業を手伝う。唐木順三宅を訪問し始める。上村占魚と長野を旅し、帰途甲府に立ち寄る

1969(昭和44)年

合同歌集「現代」を刊行

1970(昭和45)年

右左口町の七覚山円楽寺に山崎家一族の墓を建立

1971(昭和46)年

岡部桂一郎、玉城徹らと「寒暑」創刊

1972(昭和47)年

鎌倉に移り住む。左眼白内障悪化。手術をして視力0.01に戻る

1974(昭和49)年

「右左口」刊行

1975(昭和50)年

「山梨日日新聞」に「山崎方代の冬」が掲載される。「短歌」昭和49年9月号掲載の「めし」によって「短歌」第一回愛読者賞作品部門受賞

1978(昭和53)年

「うた」創刊に参加。石田比呂志主宰「牙」短歌会に講師として呼ばれる。鎌倉松林堂ギャラリーで山崎方代「自画像歌墨展」を開催

1980(昭和55)年

鎌倉アカデミー「詩と短歌」の講師となる。「こおろぎ」刊行

1981(昭和56)年

「首」刊行。有志によって右左口町に歌碑が建立される。「青じその花」刊行

1984(昭和59)年

牧丘町(現山梨市)を訪ねる(最後の山梨行きとなる)。自宅近くの診療所で肺がんと診断される

1985(昭和60)年

8月19日、肺がんによる心不全のため死去(71歳)

山崎方代歌碑一覧

1・ひる前にランプのほやを磨きあげ
いつものように豆を煮つめる
右左口の里
2・寂しくてひとり笑えば卓袱台の
上の茶碗が笑い出したり
中道北小学校
3・野良馬の靴の片方みつけ来て
出口の釘に掛けておく
右左口の里
4・右左口の峠の道のうまごやし
道を埋めて咲いておるらん
右左口の里
5・丘の上を白いちょうちょうが何かしら
手渡すために越えてゆきたり
中道南小学校(別サイトへリンク)
6・うつし世の闇にむかっておおけなく
山崎方代と呼んでみにけり
右左口の里
7・死ぬ程のかなしいこともほがらかに
二日一夜で忘れてしまう
右左口の里
8・笛吹の土手の枯生に火をつけて
三十六計にげて柿食う
右左口の里
9・ころ柿の村にかえって諧謔を
弄していたと聞いておりたり
右左口の里
10・切り株に腰を引っかけ見ていると
今日の夕日が笑っているよ
中道北小学校
11・夜おそく出でたる月がひっそりと
しまい忘れし物を照らしおる
中道南小学校(別サイトへリンク)
12・菜の花のような便りをいただいて
腕こまねいてむせている
健康の杜アネシス(別サイトへリンク)

13・遠方より友来たりけり目隠しをして
鶏小屋の鶏を選べり

右左口の里
14・ふるさとの右左口邨は骨壷の
底にゆられてわがかえる村
方代生家跡(敬泉寺隣)(別サイトへリンク)
15・ひっそりと座っていると月が出て
畳のへりを照らして去った
健康の杜アネシス(別サイトへリンク)
16・まっ黒く澄みたる馬の目の中に
釜無川が流れている
笛南中学校(別サイトへリンク)
17・わからなくなれば夜霧に垂れさがる
黒きのれんを分けて出でゆく
右左口の里
18・雲雀子よ早く孵せよこの麦も
少し早いが刈らねばならぬ
健康の杜アネシス(別サイトへリンク)
19・こんなにも湯呑茶碗はあたたかく
しどろもどろに吾はおるなり
右左口の里
20・担ぎだこ取れし今でももの見れば
一度はかついでみたくなるのよ
笛南中学校(別サイトへリンク)
21・桑の実が熟れている石が笑っている
七覚川がつぶやいている
右左口の里
22・私が死んでしまえばわたくしの
心の父はどうなるのだろう
円楽寺境内(別サイトへリンク)
23・茶碗の底に梅干の種二つ竝をる
あゝこれが愛というものなのだ
敬泉寺観音堂脇(別サイトへリンク)
24・これやこの吾とて水呑百姓の
父の子にしてほこらざらめや
方代生家跡(敬泉寺隣)(別サイトへリンク)
25・なりゆきにまかせているとかたわらの
涙の土瓶が笑い出したり
方代生家跡(敬泉寺隣)(別サイトへリンク)

26・ほんとうの酒がこの世にありし時に
父もよいにきわれもよいたり

円楽寺境内(別サイトへリンク)