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更新日:2017年9月28日

武田勝頼

武田勝頼像

武田勝頼は偉大な父・信玄の活躍の影に隠れがちですが、国主となった直後は信玄でさえ攻略できなかった高天神城を陥落させるなど、大いに気を吐きました。

織田信長・徳川家康連合軍との長篠の合戦は、鉄砲と騎馬隊との戦いとして歴史の教科書にも必ず登場するほどに有名ですが、この時代に騎馬隊がなかったことや鉄砲の三段撃ち戦法も疑問視されることから合戦の内容は江戸時代に相当脚色されているものと考えられます。

しかし、武田勢が総力戦で大敗したことは事実で、以後、勝頼は劣勢挽回のため、北条氏や上杉氏との同盟を模索することになりました。

勝頼の時代には、商・職人の城下集住策が継続されるとともに、領国内の升や秤といった度量衡が統一されて、生産・流通の統制が強化されました。城下町の富裕商人の中には政治に口をはさむ者まで現れたことが『甲陽軍鑑』に記されています。

勝頼の墓は法泉寺にひっそりと建てられていますが、武田家滅亡の悲哀を訪れる人に訴えているかのようです。

略年表

1546年

勝頼が誕生

1562年

勝頼が諏訪氏の名跡を継ぎ、信州高遠城主となる

1573年

勝頼が甲斐国主となる

1574年

祖父・信虎が高遠で病死。大泉寺で葬儀が行われる
勝頼が遠江高天神城を攻略

1575年

勝頼が三河の長篠で織田・徳川連合軍と戦い、壊滅的打撃を受ける

1576年

恵林寺で信玄の葬儀が執行される
勝頼が安芸の毛利輝元に書状を送り、織田信長の包囲を図る

1577年

勝頼が北条氏政の妹を正室に迎えて、勢力の回復を図る

1578年

勝頼が越後府内に出陣し、謙信没後の上杉家内紛調停に努める

1579年

勝頼が駿河黄瀬川で北条氏政と対陣
勝頼の妹・菊姫が上杉景勝に嫁ぐ

1580年

武田と北条の水軍が伊豆重須沖で交戦
勝頼が鉄砲玉10万発の調達を命じる

1581年

勝頼が織田勢の甲斐侵攻に備えて韮崎に新府城を築城し、移転。甲斐の新府中とする

1582年

織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻し、勝頼は大和村田野に滅ぶ

関連項目