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更新日:2023年1月26日
元禄13(1700)年に建立されたという、県内で最古級の厄除け地蔵。右左口の集落を向いて鎮座しています。自分の体の痛い部分と、地蔵の同じ部分を石で叩くと良くなるといわれ、このときに出る音から「かんかん地蔵」ともよばれ、長年にわたって石で叩かれているため、各所がへこんでいます。
上宿の厄除け地蔵と向かいあっていて、ともに「宿場の守り神」といわれています。
この地に農業・養蚕などを教えたといわれる珊瑚珠姫をまつったといわれています。地元では御左口(う・おさぐち)さんともいわれ、それが訛って地名「右左口」になったとの説もあります。
下宿の道祖神がある場所は中道往還の分岐点で、「右 甲府ニ至ル 左 市川ニ至ル」という道標があります。
上水道が発達していない時代は、地域の生活用水でした。今でも清水が湧いています。
徳川家康が右左口に滞在時、この水を献上していたとも…。
慶長10(1605)年創立。徳川家康は右左口に滞在時、寺内にも兵士のための仮小屋を建てたといわれています。
天正10(1582)年、徳川家康が甲斐をおさめるために入国したとき、1週間滞在していた仮御殿(本陣)跡。
33年に1度ご開帳される、平安時代末期作の秘仏「十一面観音立像」が安置されています。土俵もあり、子どもたちの奉納相撲大会が行われます。
徳川家康が右左口に滞在したとき、見張りの兵をおいていたという説も…。
右左口宿の出入口にある道標。「右 駿河 左 山道」と刻字されています。
右左口出身の歌人・山崎方代の歌碑が21基設置されています。中には、方代の直筆が刻まれた歌碑も。
地元で「お伊勢さん」と呼ばれる冷(霊)水の湧出地。昔はこの水が、右左口宿の簡易水道の源でもありました。
※今は水を汲むことができません
厄除け地蔵は、下宿の厄除け地蔵(かんかん地蔵)と向かい合って鎮座し、ともに右左口宿を守っていると伝えられています。
その周囲の六地蔵は、元禄9(1696)年の銘があります(現在は4体のみ)。
「徳川家康朱印状」や「右左口人形浄瑠璃」の人形・衣装などが約400年、保存されていました(現在は県立博物館で保存)。
家康から海産物の売買を免税する朱印状を与えられた村人たちは、それを記念して「御朱印祭り」を始めました。その余興に右左口人形浄瑠璃が行われていたといわれています。
右左口人形浄瑠璃は、江戸時代に最盛期を迎え、明治初期に上演中止になり大正初期に姿を消しました。現在は有志が右左口人形浄瑠璃会を結成し、保存・伝承のための活動を行っています。
徳川家康朱印状と朱印状が納められていた石櫃
右左口人形浄瑠璃
山梨県立博物館に展示
「漂泊の歌人」と呼ばれる山崎方代(1914~85)の生家跡。方代は大正3年、8人兄弟の末っ子として生まれました。実家は水車業を営んでいました。
鳥居から約20分登った山中に石祠がまつられています。右左口神社と上宿・下宿の厄除け地蔵がある場所は、一直線に結ばれていて、宿の集落を災害から守っていると伝えられています。
中道往還の旧道、旧国道(通称・自衛隊道路)で右左口峠まで行くことができます。
旧道入口から右左口峠まで徒歩で約2時間。途中、強清水や行きかう商人や旅人のための土留め、蹄止めとしての石畳がわずかながら残っています。
※車の通行不可。山道ですので歩く方は十分お気をつけください
今は絶えてしまいましたが、旧道入口から右左口峠までのほぼ中間に位置する湧水地。「親は諸白(もろはく)、子は清水」という親子愛を語った「強清水伝説」があります。
右左口峠へ向かう途中、甲府盆地を一望できるポイントや県指定自然記念物の「日蔭山の枕状溶岩」があります。
※車通行可、未舗装。古関町へ抜けることができます。冬期は通行止め
海底火山の溶岩が急激に冷やされて転がりながら固ったもので、この辺りが昔、海底だったことを示しています。直径20~90cm、長さ50~100cmの枕のような形の溶岩が積み重なって約3mの層を形成しています。