ホーム > 武田信玄

ここから本文です。

更新日:2014年9月28日

武田信玄

武田信玄像

戦国武将・武田信玄というと、上杉謙信との川中島の合戦があまりにも有名ですが、政治家としても優れた手腕を発揮しています。

特筆されるのは釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした点です。信玄が領民に慕われ、現在も郷土を代表する英雄として人気を集めているのは、民政に力を入れていたからではないでしょうか。

また、信玄の時代には商・職人集団の編成と甲府への居住が進められ、城下町は南方に大きく拡大して、駿府や小田原と並ぶ東国有数の都市に発展しました。寺院の数も50ヵ寺を越えていますが、善光寺などは城下町での用地確保が困難となったためか、山を隔てた板垣郷に創建されています。

甲府を中心とする交通網の整備も着々と行われ、往還に沿って荷継ぎの馬を配備した宿町も発達しました。

晩年の信玄は京都を目指して上洛の軍を起こし、遠江(静岡県)の三方ヶ原で徳川勢を粉砕しましたが、病気のため、夢むなしく信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じました。

略年表

1521年

信虎嫡男・太郎(晴信、のちの信玄)が積翠寺で誕生

1536年

晴信が三条公頼の娘と結婚

1541年

晴信が家督を継ぎ、甲斐国主となる

1546年

晴信が勅使三条西実澄らを積翠寺に招き、和漢連句の会を開催

1547年

甲州法度之次第(信玄家法)が制定される

1548年

信州上田原で村上義清と合戦
甲府城下町が過密となり、農民の田畑・屋敷の拡張・新築が制限される

1551年

晴信が京仏師康清を招き、自らを模刻した武田不動尊を造る

1553年

第1回川中島の戦い

1554年

武田・今川・北条の三国同盟固まる

1555年

第2回川中島の戦い

1557年

第3回川中島の戦い

1558年

信州善光寺の本尊を甲府に移し、甲斐善光寺の伽藍造営に着手

1559年

晴信が信玄と名乗る

1560年

釜無川に信玄堤が完成し、盆地底部の開発が進む

1561年

第4回川中島の戦い

1568年

信玄が駿府城攻略

1572年

信玄が西上の軍を起こし、三方ヶ原で徳川勢を撃破

1573年

信玄が信州伊那の駒場で病没

関連項目

家族

信玄公には、長男義信など7男5女、計12人の子どもがいた。長男と三男は亡くなり、二男は目が不自由だったため四男の勝頼公が信玄公の跡を継いだ。妻は側室を含め6人。

死因

天正元年(1573)4月12日、戦陣の途中、信州の伊那で病死。死因は胃癌や結核、肝臓病などが考えられる。臨終の時、3年間は自分の死を隠すように遺言したといわれる。

名前

幼名は勝千代。元服(成人)して晴信となり、仏門に入って信玄を名乗る。戒名は恵林寺殿機山玄公大居士。太郎、晴信、信玄、機山はすべて信玄公の名前。

風林火山

中国古代の孫子の兵法「疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山の如し」の四句の各句の終わりの語を集めると「風林火山」となる。