更新日:2019年11月1日

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その10 タタリからマツリへ、信玄火葬塚の整備

「魔縁塚(まえんづか)」と呼ばれて

甲府市岩窪町の「信玄火葬塚」は、いつからそのような場所とされて来たのだろう。柳沢家の甲斐領有時代、近くに永慶寺(えいけいじ)が建立され、この時は信玄の墓所として整備されたという。江戸時代の中頃には円光院の近くの畑に信玄火葬の跡があると紹介されているので、この頃までには「信玄火葬の場所」という認識が人びとにあったと言えるだろう。ただ、そこは「魔縁塚」とも呼ばれる心霊スポットでもあった。現存しないが、「甲州魔縁塚縁起」なる書物には、この塚を犯すとたたりがあるので、地元民は決して近づかない、と書いてあったらしい。これだけでは具体的なことは一切分からないが、文政13年(1830)の「甲駿道中之記」には、次のようにある。
“昔、地元民がここに金が埋まっているとして、掘りに出かけた。そうしたら、急に大風が吹き、大地が揺れた。その後、家に帰って高熱を出し、死んでしまう者が多数出た。”

甲府代官・中井清太夫が発掘調査?

安永8年(1779)春、甲府代官・中井清太夫は信玄の徳をしのぶため、火葬塚伝承地(魔縁塚)に石碑を建てようと土を掘り返した。やがて地下2丈(約6m)から石棺が出てくる。その棺には骨片が入っていて、また周囲の土から灰が検出された。これで火葬地であることが確認され、石棺その他を埋め戻し、その上に新しい石碑を建てたという。
実際は火葬塚に対する清太夫の関与は不明である。ただ同じ年に、有志(武田浪人など)が50余名の協力を得て墓碑を建立したことが伝わっている。当時、幕府の甲州枡の廃止方針に対して、甲斐の人びとは反対運動を繰り広げていた。「信玄が定めた甲州枡」を守ろうとする甲斐の人びとの思いが、信玄の火葬塚整備につながったのかもしれない。

立派な廟所(びょうしょ)に

その後、火葬塚は囲いも破れ、荒れた。灌木(かんぼく)が生い茂り、牛馬が石碑に糞尿をひっかけるような有様になったらしい。そこで、天保6年(1835)、火葬塚再整備の声が上がる。武田浪人や由緒の者が中心となって動き、寄付金として甲金116両2分(現在の1千万円程度)が集まった。157名が寄付に応じ、そのほとんどは武田浪人だったが、市川大門村の「御用紙漉(かみすき)」7名も甲金3両を出した。天保11年に竣工した火葬塚は、3間(約5.4m)四方に盛り土をし、高さ3尺(約90cm)の石垣をめぐらせてあった。5段の石段を上った先には、唐破風(からはふ)付の屋根を有する門を設ける。墓石は台石を3重として、高さは5尺6寸(約170cm)あった。翌天保12年には、上棟式と祭礼が行われ、火葬塚は信玄の霊を祀る廟所として、体面を新しくしたのである。
やがて、信玄卒去の4月12日に、恵林寺・大泉寺で「機山公祭」が行われるようになると、火葬塚にも参詣者が群れをなすようになる。そして、現在も人びとが信玄について思いをはせることのできる「よすが」として、火葬塚は大事にされているのである。

 

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