更新日:2020年1月16日

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その14 甲府勤番士のお年賀

勤番士、初めての正月 

享保9年(1724)7月、甲府勤番支配が設置され、甲府は幕府の直轄となり、江戸から200人の勤番士が赴任した。そして年が明けて、江戸育ちの彼らは初めて甲府の正月を迎える。彼らの主な職務は甲府城の警備なので、元旦でも当番交代がある。朝6ツ(午前6時ごろ)、この日ばかりは熨斗目(のしめ)・麻上下(あさかみしも)といった礼服着用で交代の式に臨んだ。当番以外の勤番士もぞくぞくと登城し、5ツ(午前8時頃)には甲府城の二ノ間・三ノ間に勢ぞろいする。追手(おうて)勤番支配の興津能登守が一ノ間より登場し、年頭の挨拶となった。
この儀式、どのくらい時間がかかるか勤番士には気になるところだろう(式のあとに年始回りがあるため)。安永9年(1780)の場合は、9ツ(正午頃)過ぎに済んだという。
城内での挨拶後は年始回りが忙しい。幕末頃の話だが、それなりの身分の屋敷には、礼装した玄関番がいて主人に取り次いでくれたという。しかし、大抵の家には玄関番がいなくて、大声で来訪を告げなくてはならず、随分「なげやり」だと、徽典館(きてんかん)学頭の宮本定正は嘆いている。
元旦から出勤する勤番士は大変だが、それでも5、6日ころになると、直属の上司や組頭から自宅に呼ばれ、祝儀の振る舞いがあった。雑煮に吸い物に酒、それを愉(たの)しみながら初めての甲府の新春を寿(ことほ)いだのである。

「働き方改革」なのか?

年始のような儀礼は毎年同じようにおこなわれ、ルーチンと化すのであるが、それでも微妙に変わったりする。3が日の当番勤務は熨斗目・麻上下を着用、4日からは平服でというドレスコードが定められていた。寛保2年(1742)、3が日は夜5ツ(午後8時頃)まで礼装で勤務すると決まっていたのが、暮6ツ(午後6時頃)までとなった。この約2時間の礼服着用「時短」が何を意図したものなのか分からないが、堅苦さの軽減が目的だとしたら、一種の「働き方改革」のはしりか? 

翻弄される振る舞い

享保14年(1729)の年始より、組頭が振る舞う雑煮が廃止になった。吸い物と酒、肴は3品程度でと決められた。当時は将軍・徳川吉宗による享保の改革政治が進行中、大きな課題として財政難や武士の窮乏などがあった。そこで倹約の命令を出す。支出を抑えることにより、武士の家計、ひいては幕府財政を好転させようというのである。享保16年の倹約令は主に服装や贈答を対象にしている。いわく、衣類は古くなっても、見苦しくなっても着られるうちは着続けよ。新しく仕立てること無用。いわく、親族中の家督継承や婚姻などへの贈答はこれまでの半分とせよ。祝儀の料理も簡略に。
上の方針がこれでは、勤番士のお正月の楽しみであろう振る舞いも規模縮小とならざるをえない。さらに享保20年の年始は吸い物さえなかった。この場合は前の月に城内から金1,000両以上が盗まれているので致し方なしといったところか。

 

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