更新日:2020年3月3日

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その17 お魚の不思議

赤い腹のハヤ 

前回の外伝は地元の淡水魚を賞味することについて述べたが、今回はその淡水魚の不思議話である。かつて武田氏の城下町は、江戸時代には「古府」とも呼ばれた。宝暦2年(1752)に甲府勤番士・野田成方(しげかた)は、古府の田畑の中に信玄・勝頼に仕えた長坂釣閑斎(ちょうかんさい)の屋敷跡があり、「釣閑堀」という水場になっていたことを伝えている。そして、そこに棲(す)む魚はすべて「一眼」という。武田氏の滅亡と運命を共にした釣閑斎の怨念がなせる業か?
赤い腹のハヤについても伝説がある。実際は生殖期に腹部が赤くなるウグイのことかもしれない。しかし、甲斐国には元々そんな魚はいなかったらしい。正徳・享保年間(1711~1736)に、「悪少年」の折平なる者を火罪に処し、その灰を荒川に流したら、ハヤがたちまち化けたという。

はじめまして…とスッポン出現

文化11年(1814)に幕府に献上された『甲斐国志』は、当時としては高レベルな調査・研究を基に書かれた甲斐国の百科事典である。その中で、甲斐の魚について気になることを記している。「宝暦年間(1751~64)鼈(すっぽん)はじめて生じ、安永年間(1772~81)鯉魚(りぎょ)が育ち、寛政年間(1789~1801)鯰(なまず)が生まれた」。そもそも甲斐にスッポンとコイとナマズはいなかった(!)。それが江戸時代の中ごろから、ぼちぼち発生したというのである。
このうち、スッポン(魚じゃないけど)については野田成方の証言もある。享保10年(1725)ごろ、勤番士の島田甚五左衛門は庭の池にスッポンを放した。それがどうしたわけか、片羽町(現在の中央・相生)から二ノ堀に落ちる。そして姿を見なくなったと思ったら、盆地中央部の中郡(なかごおり)で繁殖するようになったという。

いたのか?いなかったのか?

コイとナマズには謎が残る。なぜなら、それらが発生する前の時代に、成方は「鯉と鯰は国中にいる。中郡あたりにはたくさんいる」と言っているからだ。この謎の真相は今のところ分からないが、『甲斐国志』は、彼らの発生の様子、および原因について科学的?な観察と考察を加えている。
(1)はじめ、国中の川・沢・沼・淵・野溝で、常に他の水と交わらないところまでにも、忽然(こつぜん)として一時に2寸(約6cm)ばかりのものが発生。
(2)年が過ぎて、水の浅いところでは死に絶えて、深いところでは成長した。後になっていなくなるということはない。
(3)原因は「気運」の移り変わりによるものであろう。
つまり、気候変動の結果、甲斐にスッポン・コイ・ナマズが発生したということだ。当時、地球規模で寒冷化の傾向がみられた。そのため、フランスでは小麦が不作となり、革命の一因ともなった。甲斐でもまさに「水面下」では、大きな変動の時代を迎えていたと言えるかもしれない。

 

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