更新日:2020年4月3日

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その19 巴座のサービス戦略 

細田才次郎という男

明治35年(1902)、三日町(現在の中央4・5丁目)の「寄席・巴亭」が「劇場・巴座」としてリニューアルされた。翌年8月には市川才三郎一座を招き、株式会社として杮(こけら)落としを行う。座主は細田才次郎だ。
才次郎は、甲府勤番士・筧幾五郎(かけいいくごろう)の子で、ゆえあって細田家に養子に入る。明治維新後は刑事になり、相当優秀だったらしいが、冤罪で投獄されてしまう。結局は東京で真犯人が捕まり、身の潔白が証明されたのだが、この体験は才次郎の心に影響を及ぼしたのであろう。周囲の復職の勧めも聞かず、「にぎやかで愉快な生活がしたい」と、演劇場の経営に手を出すのである。

サービスさせていただきます

当時の甲府の演劇場は「桜座」が一番人気で、巴座は東京歌舞伎の有名どころを舞台に上げたが経営は苦しかった。株主がどんどん手を引く中、大正へと元号が変わるころには、才次郎の独占経営状態になる。ここで才次郎は改革に着手する。それまでの演劇場には「出方(でかた)」という客を案内し、何かと世話をする男衆がいた。慣行として客は出方に心付けを払わなければならなかった。
才次郎は、東京の帝国劇場の制度にならい、男子の出方を廃止、女子の案内係に切り替えて、案内を希望する客だけが料金を払う仕組みにした。心付けがなくなったので客にとっては明朗会計となる。とにかく客を入れなければ、演劇場は成り立たないのだ。
開業当初から巴座では先行の桜座に対抗するためか、さまざまなサービス戦略をとる。明治36年(1903)の9月興行では入場料・敷物代など込々で、さらに寿司が付く「観覧券」を売り出した。大正11年(1922)の盆芝居では、初日に限り、先着500人に鰻(うなぎ)弁当と「蝶矢サイダー」をサービスした。鰻にサイダーという取り合わせはいかがかと思うが、当時、太田町の今井商店が製造していた「蝶印美人サイダー」なる飲み物が流行っていたらしいので、巴座にしてみれば精一杯のサービスだったのだろう。 

時流の中で…

明治・大正・昭和と時代が進むと、歌舞伎芝居から近代劇や活動写真(映画)に人気が移る。巴座も歌舞伎一辺倒ではなく新機軸を打ち出してゆく。例えば、日露戦争後、巴座では芝居の合間に小松商会の活動写真を映すようになった。作品は『日露激戦勝利の実況』や『嗚呼(ああ)軍神広瀬中佐』などで、これが甲府初の映画定期上映だという。大正2年(1913)、評論家であり演出家の島村抱月(ほうげつ)が新劇俳優・松井須磨子(すまこ)らと芸術座を結成して近代演劇の普及に乗り出した。巴座は大正4年に彼らを招いて、近代劇を甲府の観客に提供した。『復活』で須磨子演じる「カチューシャ」が大評判になったという。
ただこれらの新機軸は、桜座でも同じように取り組んでいた。活動写真に押されて甲府の演劇場全体が斜陽となり、巴座は昭和の初めに姿を消した。跡地には映画館・キネマハウスが建った。

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