更新日:2019年6月20日

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その2 誰が為に時の鐘

焼けてしまった時の鐘 

時の鐘の「音」は、各町の出入り口にあった木戸の開閉や、農業用水と生活用水の利用時刻、湯屋の営業時間の時報のほか、火災時には緊急サイレンとしても使われた。「音」だけに城下の住人すべてが、その恩恵を受けた。
このありがたい時の鐘、文化3年(1806)12月に鐘楼と鐘撞人(かねつきにん)が詰める小屋とともに燃えてしまった。この火事の火元が鐘撞人の自宅というのがまた皮肉である。その後しばらく鐘楼は仮設状態が続き、鐘も溶けたわけではなかったらしく、そのまま無理やり使っていたようだ。

よみがえれ!時の鐘 

文化15年に、鐘楼の再建工事が行われた。鐘も鋳直(いなお)されて新しくなった。ここで気になるのは費用である。「音」の復活に誰がお金を出したのであろう。それは「みんな」であった。
再建の費用は、商業が盛んな地域、いわゆる甲府城東側の下府中がより多く出しているという傾向がみられる。豪商といって差し支えない者は、甲州金1両を払っている(現代の感覚だと5万円から20万円ぐらい)。ただ、それ以上の高額を払っている者がいない。かわりにその日暮らしであろう店借(たながり)たちも、個々は少額だがしっかり出している。さらに甲府勤番士や、長禅寺前にあった甲府代官所の役人たちといった武士層も出している。受益者負担として、時の鐘の再建は広く浅く、城下のみんなが負担すべきと考えられたのであろう。それだけ城下の生活のリズムとして根付いていたのだ。
こうして集まった費用は合計で甲州金73両1分(ぶ)と銀9匁(もんめ)8分少々。天明5年(1785)に江戸日本橋に近い本石町(ほんごくちょう)の時の鐘を再建したときの費用が約74両なので(浦井祥子『江戸の時刻と時の鐘』)、甲府の時の鐘は、江戸中心部のそれと遜色ない規模だったのかもしれない。

ごちそうにありつく

工事は文化15年2月下旬から始まった。3月3日に鐘を下ろし、6日には新しい鐘に取り替えられた。そして、4月5日にめでたく棟上げ(むねあげ)となる。この工事、当然ながら大工や鋳物師などの職人、各町からの人足など多くの人々が関わった。町役人も総動員である。工事期間中は、毎日、朝と昼に町名主が2人ずつローテーションで現場に顔を出した。
これだけ人が集まれば、飲み食いも生じて、それも会計が残っている。なぜか「さしみ」がよく計上されており、ひらめ・ぶり・塩まぐろ・いなだ・煮貝など、海のない当地ではなかなか豪勢である。上連雀町の富士井屋からは酒も度々仕入れている。3升5合買った翌日に2升、そのまた翌日に4升と購入している。3日間で約1斗(と)、およそ18リットルである。仕事になったのか?…これが必要経費として認められていたのである。
ともあれ、みんなの思いを受けて、装いも新たに鐘の音は城下に響き渡ったのである。

 

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