更新日:2019年7月11日

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その3 牛と羊と藤村紫朗と

甲府城跡を牛が行く

明治維新後、荒れ放題になっていた甲府城跡(現在、国史跡)の活用策として、1つの答えになったのが、明治9年(1876)につくられた勧業試験場である。それは、農事試験場と翌年設置の葡萄(ぶどう)酒醸造(じょうぞう)所からなる。県令(今でいう県知事)藤村紫朗(ふじむらしろう)の殖産興業(しょくさんこうぎょう)策が、甲府の町を大きく変貌させていた時期だ。
その年の10月、藤村は内務省に申請する。洋牛を牡(おす)・牝(めす)取り合わせで5頭、「山梨県に貸して欲しい」と願い出たのである。県下には牧場に適した場所が多いが、洋牛を飼うことへの不安から牧場経営に二の足を踏む者がいるので、まずは試験場で先鞭をつけるということであった。そして、翌10年、内務省から拝借したアメリカ種「デボン」牛3頭と、静岡県沼津その他より買い入れた数頭の洋牛が、甲府城跡で草を食むようになった。

生と死をみつめて

拝借した2頭の牝牛から、それぞれ2頭ずつの子牛が誕生した。また買い入れたアメリカ種の牝牛と、拝借した「華豹」の牡牛を交尾させて、これまた子牛の誕生をみている。「これはいける」となったのだろう。県下の農産社は、県から洋牛の貸与を受け、兵庫県より但馬(たじま)牛100頭を購入、日野春(ひのはる)村(北杜市)・円野(まるの)村(韮崎市)・甲府花園(はなぞの)町(丸の内)に牧場を開いた。
しかし、芽吹く命あらば、散る命もある。明治11年8月初旬、拝借した栗毛の牝牛の乳房が腫れあがったので、種々、治療につくした。9月初旬には回復したようにみえたが、やがて下痢をくり返し、乳房が硬くなった。次第に衰弱し、ついに9月24日、帰らぬ牛となった。2頭の母であった。
日本の牛を考えた場合、明治初期は生死に大きな変化があった。今まで農業には欠かせない存在であったのが、肉食の広まりとともに、食用として人間の目に映るようになった。 

紫朗さんの羊

藤村紫朗は羊の飼育にも力を入れた。明治8年8月に買い入れた中国種の「綿羊(めんよう)」3頭は、風土・気候がマッチしたのか、約1年半後には9頭に増えた。さらなる繁殖のため、藤村は内務省に牡2頭、牝8頭の拝借を願い出る。明治10年に東京の上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会では、勧業試験場で生産された羊毛が出品された。羊の飼育はある程度の成績を収めたのであろう。
藤村は湯村温泉の活性化にも関わっている。湯村温泉には「谷の湯」という、近隣の農耕馬などを湯に入れる、別名「馬の湯」と称する源泉があった。ここに温泉施設が建てられて、賑わいをみせるようになったのは明治16年以降のことである。きっかけは1頭の羊であった。藤村がかわいがっていた羊が病気になり、「谷の湯」に入れたら、たちまち治った。そこで、こんなにも効能がある「名湯」に、家畜だけ入湯しているのはまことに「遺憾」の至りであるとして、地元の有力者に整備を働きかけたという。その結果が、今につながる温泉街の形成である。藤村紫朗は動物好きだったのかもしれない。それが甲府の歴史のどこかに影響したかもしれないのである。

 

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