更新日:2019年8月28日

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その6 暑中、コレラが襲う

幕末のコレラ流行

安政5年(1858)、6月に日米修好通商条約が結ばれ、7月には13代将軍の徳川家定が死亡、いよいよ幕末の混迷が増したその時、コレラが日本にやって来た。
上海から長崎に入ったコレラは、たちまちに全国に広がり、江戸で3~4万人の死者が出たという。この恐るべき病気が甲府でもみられるようになったのは7月下旬からで、ちょうどその時、八幡北村(山梨市)から市川喜左衛門という村役人が、甲府代官所に用があり、横近習町に滞在していた。そして、市中のコレラ流行の様子を記録に残したのである。流行は7月24日頃からみられたらしい。1日に2~3人が死亡した。28日頃になると、1日に8~9人と死者が増加。8月上旬には日々30~40人が死亡したというからすさまじい。発症すると全身が冷え、手足が震え、嘔吐と下痢が激しい。医者も昼夜、不眠不休で診察に回り、手を尽くしたが、その甲斐なく死亡する者は増え続けた。甲府の死者は町年寄の調査だと、8月中で303人、9月は中旬までに103人を数えた。一方、喜左衛門は9月26日までに626人としている。

助けて、神さま

元紺屋町の八雲(やくも)神社の境内に、コレラ流行の翌安政6年に奉納した石灯籠がある(写真)。そこは江戸時代、祇園寺だった。疫病(えきびょう)除けの神、牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていた。人々は何とかしてもらおうと牛頭天王にすがる。甲府代官所も、「遠くへ去らないと、牛頭天王が征伐に来るぞ」、と「疫神」に対してお触れを出した。その他、住吉大明神・浅間大明神の神輿(みこし)も町々を練り歩いた。
なぜこんな恐ろしい病気がはやるのか。熊野の鳥が世のおごりを戒めるためと言ったという噂が広まる。また、8月13日に火元がよくわからない火事が発生し、「天火」だという話にもなった。人々は熊野の「神武御鳥」(じんむおんとり?)を神棚に祀ったり、「規氏将軍内懐中御守」と書いた紙を戸口に貼り付けたりした。みんな、必死でマジカルパワーを信じる。それだけ打つ手は少なかった。

科学的対処、なのか?

それでも、何とかコレラを予防・治療しようとする態度は確かに存在した。江戸の勘定奉行が触れ出した、コレラの療法が甲府でも周知される。「とにかく体を冷やすな」、「大酒・大食は慎め」といった予防。発症した場合、桂枝(けいし)などを原料とする「芳香散」を服用。焼酎に樟脳(しょうのう)を入れ、温めて木綿に浸し体に塗る。芥子(からし)とうどん粉を熱い酢でまぜ、木綿にのばして貼る。等々。
何が本当に効くのか、誰も判断できなかった。桑の根・南天の葉・黒豆・黒ゴマ・小麦を煎じて飲むとよい。これは、喜左衛門が、江戸から帰ってきた山田町の藤井屋半七から聞き取った話である。つまり噂のたぐいと言ってよかろう。効くとなると何でもよかった。男は右、女は左で足跡をつけ、その土踏まずの所に灸を据える。「人は足を使えば、流行病も受け付けない」と、誰かが言ったらしい。かなりマジカルでもある。9月上旬には、人の便を絹か木綿で二重に包み、煎じて呑めば嘔吐が直り、全快するという話が出た。なんともおぞましく、余計に悪化するであろうが、みんなが不安な時には、とんでもない情報が行き交うということだろう。
明治維新まであと約10年の時代相であった。

八雲神社の石灯篭 八雲神社の石灯篭

 

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