更新日:2019年9月30日

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その8 大和座の挑戦

大正時代の甲府芝居

江戸時代や明治の甲府で大人気だった歌舞伎芝居も、時代が新しくなるにつれて衰退の兆しをみせる。その原因は種々あるが、1つには活動写真(映画)に大衆の人気が移ったことが大きい。もちろん、すぐに歌舞伎人気がなくなったわけではない。大正4年(1915)に市川猿十郎の「だんまり」、松本錦升の「源平布引滝」が甲府で上演された際は、「各製糸場が休業中だったので毎夜大入り」になったという。
しかし、大正時代の甲府は、「甲府の演芸界は活動写真が全盛で、浪花節・落語・義太夫などは独立しての興行が成立しない」とか、「甲府市の演劇趣味はドン底に落ち、春芝居も打てない」といった状況が新聞で報じられた。当時は桜座と巴座の2大劇場があったが、欧米の演劇要素を取り入れた新派劇や新劇といった新しいタイプの演劇を盛んに上演するようになった。

大和座の登場

さて、活動写真に人気が移っていた甲府の芸能状況の中、新しい芝居劇場が2つ誕生した。三日町(現中央)の演芸場・稲積館をリニューアルした甲府劇場が大正8年に、代官町(現相生)に衆楽座(翌年大和座と改称)が同10年に開業した。後者の大和座の主は、内藤甚三郎である。この人物、父が桜座の初代座主だった。
桜町の桜座は、明治9年(1976)に出来た三井座の経営を、甚三郎の父・内藤文助が同17年に引き継いで開業した芝居劇場である。その時の広告チラシには「これまでの弊害を一掃して、価格をしっかり定め、手軽に来場いただくようにする」と、あいさつ文を載せた。弊害とは、芝居劇場の若い衆や茶屋などへの「心付け」などといった慣習であろう。文助の新しい桜座経営への並々ならぬ意欲がわかるようだ。
おそらく甚三郎は大正に入ってから、桜座の経営を継いだ。それがどうして大和座を立ち上げたのかは分からない。大正9年には桜座で、東京歌舞伎の大一座を呼んで上演している。その翌年が大和座の開業である。もしかしたら、新劇や活動写真(芝居と演するようになる)に軸足を移さざるを得なくなった桜座に魅力を感じられなくなったのかもしれない。

大和座の理想と現実

大和座のこけら落としには、東京の守田勘弥一座を招いた。つまりは伝統的な歌舞伎芝居である。翌大正11年は8月に再び守田勘弥一座、9月には市川猿之助・八百蔵・小太夫の東京大一座を呼んでいる。歌舞伎の古典的名作の上演は、翌年ぐらいまでは続いたようである。甚三郎の理想が形になったといえるかもしれない。
しかし、現実の経営を考えると歌舞伎だけでは苦しい。大正11年の大和座興行を順に見てみよう。
歌舞伎(5日間)→奇術(松旭斎、5日間)→新派劇(藤井二郎・中村翠娥一座、1日間)→新派劇(藤井・中村一座、1日間)→歌舞伎(5日間)→女義太夫(「天才美音少女」竹本昇来演、1日間)
もはや、歌舞伎芝居をロングランで上演できる時代ではなくなっていた。そして、昭和初期には芝居劇場自体の経営が成り立たなくなり、大和座も他のご同業もひっそりと消えていった。

 

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