更新日:2019年10月18日

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その9 江戸時代の武田氏館跡

館跡(やかたあと)の利用法 

天正9年(1581)の暮、武田勝頼は慣れ親しんだ躑躅(つつじ)が崎の館を捨て、新府城へ移った。翌年に武田氏は滅亡してしまうが、その後の領主によって躑躅が崎の館跡は修復され使用される。ところが、一条小山(こやま)に新しく甲府城が築かれると、甲斐の府中はそちらに移り、町も新しく開発されることになった。館跡周辺は、武田家臣の屋敷や寺社などの跡が空き地になる。そこで開墾に従事させるために人びとを招きよせ、日影組などの五所に住まわせ、1,000石余りの村高を定め古府中村が成立した。かつての中心街が村落とされたのである。
そして、武田氏館跡は「古城(こじょう)」と呼ばれるようになる。当時は、武田の史跡としてアピールする、何らかの整備をする、という発想はあまりなかったようである。信玄の法号にちなむ法性(ほっしょう)大明神の小さな祠(ほこら)があったぐらいだ。地元の古府中村の「明細帳」(江戸時代後期のもの)には、次のようなことが書いてある。
古城の範囲は東西150間(約273m)・南北106間(約125m)で、「東曲輪(くるわ)」「中曲輪」「藪(やぶ)曲輪」の3区画に分かれる。そのうち、藪曲輪は公有地である「御林(おはやし)」に指定され、村びとは年間銭700文(今の感覚だと1~2万円ぐらいか)を納めて、肥料用の落葉や下草を採っている。
江戸時代中頃にはすでに古城内に御林があり、やたらと立ち入りができなかったらしい。そして、藪に生えている竹は、切り口が割菱、つまり「武田菱」の形をしていたという都市伝説めいた話が伝わる。堀の水も田んぼの灌漑(かんがい)に使ったとも言われ、地元住人にとって古城は、武田氏を偲ぶというよりも、生活に密着した史跡であった。

館跡の自然

江戸時代の古城には、ときたま他国から文人や武士も訪れることがあったが、一部を御林に指定したとはいえ、全体を史跡として管理していたわけではないので、けっこう荒れてしまっていたらしい。それでも天守台に登れば、南方の眺望が素晴らしく、それなりに四季の景色が楽しめる名所だった。ただ、この天守台付近には年老いた狐が棲(す)んでいたとも言われ、雨が降ると大蛇が出現すると噂された。ほとんど妖怪の住処(すみか)扱いである。
しかし、堀にはハヤやフナ、そしてウナギが泳いでいた。かなりの大物もいたらしい。武田家臣の長坂釣閑(ちょうかん)の屋敷跡と伝わる「長閑堀」にも魚はいた。ただし、みな「一眼」と不思議な話になっている。
かつて、武田三代がその悲喜こもごもをつむいだ躑躅が崎館は、江戸時代の人びとにとっては、史跡というよりも、城下からあまり遠くない所で、自然を感じられるスポットと思われていたようだ。館跡に神社を建立して、信玄を祭る…この実現は、大正時代まで待たなければならなかった。
武田氏館跡(武田神社)から南方面を眺める 武田氏館跡(武田神社)から南方面を眺める

 

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