


◎甲府の名前は、永正十六年(一五一九)、武田信虎がこの地に館をおき「甲斐府中」と定めたことにはじまる。府中とは、政治を行う場所のこと。武田氏の館は現在の武田神社の地で、躑躅(つつじ)ヶ崎にあったことから「躑躅ヶ崎の館」と呼ばれた。
◎信玄は、甲府に館がおかれた二年後、館の北東の要害城(積翠寺)で誕生した。父は信虎、母は大井夫人。誕生の地には「産湯の井戸」が残される。これより甲府は、信虎・信玄・勝頼と、武田三代六十余年の栄華の地となる。




◎「信玄堤」は甲府盆地を洪水から守る治水工事で、普通の一直線の堤防ではなく、何本もの堤防を重ねて川を取り囲む工法。また、経済力の強化を図る「金山開発」、「甲斐九筋」の街道整備、五十七カ条の法律「甲州法度」、独自の量制「甲州桝」などを制定した。
◎戦国時代の名勝負、信玄、謙信による「川中島の合戦」は、十二年間に五度におよんだ。川中島は千曲川と犀川が合流する穀倉地帯で、交通の要衝。信玄、謙信ともに譲れず、領有化したい土地だった。最大の合戦は第四次の戦い。信玄は二万、謙信は一万三千の軍勢。戦死者は七千人に達したが、ついに決着はつかなかった。

甲府盆地を洪水から守り、新田開発を促した「信玄堤」。「甲州流川除」と呼ばれ、江戸時代の模範となった。

信玄袋(武田神社所蔵)


信玄は「黒川金山」などから金を採掘し、軍用金や恩賞に用いた。「甲州金」は江戸時代にも流通し、日本の貨幣制度の礎を築いた。





