ここから本文です。
更新日:2022年2月14日
方代は、大正3年11月1日、右左口村(現甲府市右左口町)で8人兄弟の末っ子として生まれました。「方代」という名前は、長女と五女以外の子どもを亡くした両親が「生き放題、死に放題」にちなんで名付けたといわれています。
15歳ごろから作歌を始め、山崎一輪の名で新聞や雑誌に投稿していました。昭和12年、母が亡くなり、翌年、父と共に姉の嫁ぎ先(横浜)へ移り住みました。
その後、太平洋戦争で右眼を失明し、左眼の視力もわずかに。街頭で靴の修理などをしながら各地を旅したことから、「漂泊の歌人」と呼ばれるようになります。昭和47年から亡くなる昭和60年までの間は鎌倉に住み、いくつもの名歌を残しました。
方代の歌は、口語体であることが特徴です。自らを「無用の人」と言い、世間から離れて暮らしていた方代は、生涯独身であり、孤独で寂しい生活の中、ありのままの素直な表現でいくつもの歌を生み出しました。
高校の国語の教科書に作品が取り上げられるなど、死後30年以上経った現在も方代は注目を集め、多くの人を魅了し続けています。
甲府市では、甲府市中道交流センターで方代の歌集や研究資料のほか、湯川晃敏氏(元日本写真家協会所属)から寄与された写真などを展示し、方代をわかりやすく紹介しています。
また、山梨県立文学館では、常設展示のほか平成6年と22年に「山崎方代展」を開催し、それまで未公開の作品や甲府市からの寄託資料、短歌仲間の秘蔵資料などが展示され、多くの見学者が訪ねました。
方代の命日は8月19日。毎年、菩提寺である円楽寺(右左口町)では命日を過ぎた最初の土曜日に、また、方代が生前親交を深めた瑞泉寺(鎌倉市)では9月の第一土曜日に方代忌が営まれています。
1914(大正3)年 |
11月1日、山梨県東八代郡右左口村(現甲府市右左口町)に生まれる |
---|---|
1921(大正10)年 |
右左口尋常高等小学校(現中道南小学校)に入学 |
1931(昭和6)年 |
この頃、発句に親しむ |
1934(昭和9)年 |
「山梨日日新聞」新年文芸で佳作に入選する |
1936(昭和11)年 |
「あしかび」「水甕」「一路」に作品を発表 |
1938(昭和13)年 |
神奈川県にいる姉、関くまのもとへ父と共に移り住む。職を転々と変える |
1941(昭和16)年 |
千葉高射砲隊に入隊。宇品港出帆。台湾、ジャワ島、チモール島へ進出 |
1943(昭和18)年 |
チモール島クーパンの戦闘で右眼失明、左眼視力0.01となる。野戦病院入院。退院後、再び戦場に出る |
1946(昭和21)年 |
召集解除、病院船で帰還 |
1947(昭和22)年 |
傷痍軍人の職の訓練を受けて、街頭などで靴の修理をしていたといわれる。山下陸奥を右左口村に迎え、一路会員と歌会をする |
1948(昭和23)年 |
岡部桂一郎らと「一路」を離脱する。 |
1949(昭和24)年 |
漂泊の旅に出る。山梨、静岡、名古屋、大阪、京都、奈良の歌仲間、歌人を訪ねる |
1950(昭和25)年 |
この頃より神奈川県にいる姉くまのもとに落ち着く |
1953(昭和28)年 |
「後期工人」創刊 |
1954(昭和29)年 |
「黄」(編集責任者 岡部桂一郎)創刊 |
1955(昭和30)年 |
第一歌集「方代」を自費出版 |
1958(昭和33)年 |
「泥の会」のメンバーと機関誌「泥」を創刊 |
1962(昭和37)年 |
「吉野秀雄日記」に方代の記事が現れ始める |
1968(昭和43)年 |
横浜市戸塚区田谷に移り住む。家主、加藤家の農作業を手伝う。唐木順三宅を訪問し始める。上村占魚と長野を旅し、帰途甲府に立ち寄る |
1969(昭和44)年 |
合同歌集「現代」を刊行 |
1970(昭和45)年 |
右左口町の七覚山円楽寺に山崎家一族の墓を建立 |
1971(昭和46)年 |
岡部桂一郎、玉城徹らと「寒暑」創刊 |
1972(昭和47)年 |
鎌倉に移り住む。左眼白内障悪化。手術をして視力0.01に戻る |
1973(昭和48)年 |
「右左口」刊行 |
1975(昭和50)年 |
「山梨日日新聞」に「山崎方代の冬」が掲載される。「短歌」昭和49年9月号掲載の「めし」によって「短歌」第一回愛読者賞作品部門受賞 |
1978(昭和53)年 |
「うた」創刊に参加。石田比呂志主宰「牙」短歌会に講師として呼ばれる。鎌倉松林堂ギャラリーで山崎方代「自画像歌墨展」を開催 |
1980(昭和55)年 |
鎌倉アカデミー「詩と短歌」の講師となる。「こおろぎ」刊行 |
1981(昭和56)年 |
「首」刊行。有志によって右左口町に歌碑が建立される。「青じその花」刊行 |
1984(昭和59)年 |
牧丘町(現山梨市)を訪ねる(最後の山梨行きとなる)。自宅近くの診療所で肺がんと診断される |
1985(昭和60)年 |
8月19日、肺がんによる心不全のため死去 |
1・ひる前にランプのほやを磨きあげ いつものように豆を煮つめる |
右左口の里 |
2・寂しくてひとり笑えば卓袱台の 上の茶碗が笑い出したり |
中道北小学校 |
3・野良馬の靴の片方みつけ来て 出口の釘に掛けておく |
右左口の里 |
4・右左口の峠の道のうまごやし 道を埋めて咲いておるらん |
右左口の里 |
5・丘の上を白いちょうちょうが何かしら 手渡すために越えてゆきたり |
中道南小学校(別サイトへリンク) |
6・うつし世の闇にむかっておおけなく 山崎方代と呼んでみにけり |
右左口の里 |
7・死ぬ程のかなしいこともほがらかに 二日一夜で忘れてしまう |
右左口の里 |
8・笛吹の土手の枯生に火をつけて 三十六計にげて柿食う |
右左口の里 |
9・ころ柿の村にかえって諧謔を 弄していたと聞いておりたり |
右左口の里 |
10・切り株に腰を引っかけ見ていると 今日の夕日が笑っているよ |
中道北小学校 |
11・夜おそく出でたる月がひっそりと しまい忘れし物を照らしおる |
中道南小学校(別サイトへリンク) |
12・菜の花のような便りをいただいて 腕こまねいてむせている |
健康の杜アネシス(別サイトへリンク) |
13・遠方より友来たりけり目隠しをして |
右左口の里 |
14・ふるさとの右左口邨は骨壷の 底にゆられてわがかえる村 |
方代生家跡(敬泉寺隣)(別サイトへリンク) |
15・ひっそりと座っていると月が出て 畳のへりを照らして去った |
健康の杜アネシス(別サイトへリンク) |
16・まっ黒く澄みたる馬の目の中に 釜無川が流れている |
笛南中学校(別サイトへリンク) |
17・わからなくなれば夜霧に垂れさがる 黒きのれんを分けて出でゆく |
右左口の里 |
18・雲雀子よ早く孵せよこの麦も 少し早いが刈らねばならぬ |
健康の杜アネシス(別サイトへリンク) |
19・こんなにも湯呑茶碗はあたたかく しどろもどろに吾はおるなり |
右左口の里 |
20・担ぎだこ取れし今でももの見れば 一度はかついでみたくなるのよ |
笛南中学校(別サイトへリンク) |
21・桑の実が熟れている石が笑っている 七覚川がつぶやいている |
右左口の里 |
22・私が死んでしまえばわたくしの 心の父はどうなるのだろう |
円楽寺境内(別サイトへリンク) |
23・茶碗の底に梅干の種二つ竝をる あゝこれが愛というものなのだ |
敬泉寺観音堂脇(別サイトへリンク) |
24・これやこの吾とて水呑百姓の 父の子にしてほこらざらめや |
方代生家跡(敬泉寺隣)(別サイトへリンク) |
25・なりゆきにまかせているとかたわらの 涙の土瓶が笑い出したり |
方代生家跡(敬泉寺隣)(別サイトへリンク) |
26・ほんとうの酒がこの世にありし時に |
円楽寺境内(別サイトへリンク) |