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更新日:2016年7月15日

甲府城

武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として築かれたといわれ、徳川体制になってからは西側への備えとしての重要性を保ち続けたといわれています。かつては20haほどの広大な城郭でした。

現在は、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されています。

甲府城(舞鶴城公園)マップ

甲府城案内図

  1. 坂下門石垣(さかしたもんいしがき)
    時代の異なる石垣を見比べてみてください。
  2. 水溜(みずだめ)
    絵図にも描かれていない秘密の水溜。
  3. 石切場跡
    ここからも石垣の石を取りました。
  4. 数寄屋櫓跡(すきややぐらあと)
    別名巽櫓(たつみやぐら)と呼ばれていた建物がありました。
  5. 鉄門跡・銅門跡(くろがねもんあと・あかがねもんあと)
    当時の礎石を見てください。
  6. 天守台石垣
    一つの石を二つに割った「兄弟石」がいくつかあります。探してみよう。
  7. 暗渠(あんきょ)
    水をうまく排水するためのもので抜け穴ではありません。
  8. 庄司稲荷跡(しょうじいなりあと)
    鎌倉時代からこの地を守る庄司稲荷がありました。
  9. 煙硝蔵跡(えんしょうぐらあと)
    甲府城の火薬庫であった建物がありました。

甲府城の歴史

甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。

天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。

甲府城は明治に入り、徳川時代の面影を大幅に失うこととなり、残された城跡が明治37年(1904)に「舞鶴公園」として開放されました。

昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、旧追手役所跡にあった県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時にその西側、南側の堀は完全に埋められました。その後、武徳殿(昭和8年)、恩賜林記念館(昭和28年)、県民会館(昭和32年)、議員会館(昭和41年)などが公園内に設置されました。

昭和39年(1964)には都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定されました。最近では、舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されました。

甲府城年表

甲府城関連事項の年表

甲府城関連事項

1582(天正10)

本能寺の変。徳川家康が入国し、平岩親吉が「城代」となる

1590(天正18)

豊臣秀吉が天下統一。家康を関東へ移封
代わって羽柴秀勝(豊臣秀吉の甥)が甲府城主となる

1591(天正19)

羽柴秀勝が岐阜へ移封、変わって加藤光泰が城主となる

1592(文禄元)

文禄の役、加藤光泰が朝鮮へ出兵

1593(文禄2)

加藤光泰が陣中にて病没。浅野長政・幸長が城主となる

1597(慶長2)

慶長の役

1600(慶長5)

関ヶ原の戦い

1601(慶長6)

徳川家康の命により平岩親吉が再度城代となる

1603(慶長8)

徳川義直(家康九男)が城主となる(城代は平岩親吉)

1607(慶長12)

徳川義直が清洲へ転封(城代平岩親吉は犬山へ転封)
城番制が設置される

1615(元和元)

大阪夏の陣(豊臣氏滅亡)

1616(元和2)

徳川忠長(将軍秀忠二男)が城主となる

1632(寛永9)

忠長死去、再び、城番制がしかれる

1661(寛文元)

徳川綱重(将軍家光の三男)が城主となる

1664(寛文4)

半世紀ぶりの大修理

1678(延宝6)

徳川綱豊(綱重の嫡男)が城主となる

1704(宝永元)

徳川綱豊が第5代将軍との養嗣子縁組により江戸城へ移る

1705(宝永2)

柳沢吉保が甲斐国を受領、大名領となる

1706(宝永3)

城内の曲輪修復や殿舎の造営が行われる

1724(享保9)

柳沢吉里(吉保の嫡男)が大和郡山へ転封
甲斐国一円が天領となる、甲府勤番の設置

1727(享保12)

甲府城大火(本丸御殿、銅門などを焼失)

1734(享保19)

城内に盗賊が侵入(御金蔵破り)

1854(安政元)

開国

1866(慶応2)

勤番制を廃止、城代を設置

1867(慶応3)

大政奉還(江戸幕府滅亡)

1868(慶応4)

明治維新、板垣退助らが無血入城

1873(明治6)

廃城、内城のみが残される

1876(明治9)

内城全体に勧業試験場設置

1877(明治10)

鍛冶曲輪跡に葡萄酒醸造所を設置

1897(明治30)

清水曲輪跡に中央線甲府停車場を設置

1900(明治33)

楽屋曲輪跡に県立甲府中学校を建設

1904(明治37)

甲府城跡を舞鶴公園として開放

1906(明治39)

城内にて1府9県連合共進会を開催、遊亀橋架橋
稲荷曲輪跡に機山館を新築

1922(大正11)

本丸に謝恩碑建設

1926(大正15)

内城石垣の一部(楽屋曲輪)を解体、跡地に県庁を新築

1953(昭和28)

鍛冶曲輪跡に恩賜林記念館を新築

1968(昭和43)

県指定史跡(史跡名称甲府城跡)となる

1990(平成2)

舞鶴城公園整備事業に着手

2004(平成16)

稲荷櫓完成

2007(平成19)

甲府市歴史公園・山手御門完成

甲府市歴史公園 山手御門(やまのてごもん)

~展示室、展望スペース~

開館時間

午前9時~午後5時

休館日

月曜日(祝日は開館)、祝日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日)

※公園は常時開放しています

入館料

無料

駐車場

有料駐車場あり

舞鶴城公園 稲荷櫓(いなりやぐら)

開館時間

午前9時~午後4時30分(入館は午後4時まで)

休館日

月曜日(祝日は開館)、祝日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日)

※公園は常時開放しています

入館料

無料

駐車場

有り(バス・身体障がい者に限ります)

※事前に連絡が必要になります(055-227-6179)。

 

線刻画

☆や#、×などの印、鳥や魚の絵が刻まれた石が、石垣から多く見つかっています。なぜ、そのような絵があるのか、理由ははっきりとわかりませんが、無事に石を積み上げ、石垣が崩れることがないように…という祈りが込められているのかもしれません。稲荷櫓周辺の石垣に鳥や魚の線刻画があるので探してみてください(細く弱いものなので触らないで見てください)。

線刻画の画像

矢穴

矢穴は大きな石を割るために開けた四角い穴です。公園内には矢穴を開けて割った石切場が残っていて、当時の石割の技術を知ることができます。甲府城では、時代によっても矢穴の大きさが違うので、石垣の積み方と見比べて探してみてください。

  • 四寸矢穴(約12cm)
    400年前の築城期 野面積み石垣
  • 三寸矢穴(約9cm)
    300年前の江戸時代中頃

矢穴の画像

温泉のはなし

「温泉、御城内、楽屋曲輪の御門前水道に湧出つ、早天には湯煙たつ、御城内なれば、何症に応するといふ事は不レ分、眠気によしとの云伝へあるよし、」(宝暦年間 野田成方『裏見寒話』)。甲府城の楽屋曲輪(現:山梨県庁構内)には当時、温泉が湧き出ていたようです。効能は脚気・眼病と言われていますが、古い文献によると、城内にあったため、一般の人は入れず、試した人はいなかったとも…。