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更新日:2023年1月26日
武田信虎には暴君のイメージがありますが、有力土豪層が割拠して乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、戦国大名・武田氏の基盤を築いた人物として、最近では高い評価が与えられています。
信虎が相川扇状地のつつじが崎に館を造営し、本拠地を移転したのは永正16年のことで、時を同じくして有力土豪層の城下集住策を進め、城下町の東西出入口部には市場を設けて物資の流通を確保しました。たくさんの寺社も創建されています。
整然とした都市プランをもつ城下町の建設は、それまでの甲斐国内ではなかったことで、この時期に信虎の飛躍的な勢力伸張があったものと推定されています。
甲府開創直後にも土豪層の反抗があり、この時点で信虎の一円支配が確立していたとは考えられませんが、甲斐の中心に位置し、甲府盆地一帯を眺望できるつつじが崎への本拠地移転には、自己の政権を不動のものとし、北条・今川氏などの国外諸勢力に対抗しようとする戦国大名・武田信虎の強固な姿勢が読み取られるのです。
1494年 |
信虎が誕生 |
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1507年 |
信虎が武田家を継ぎ、甲斐国主となる |
1519年 |
信虎が相川扇状地のつつじが崎に新館を造営し、家臣や商・職人の集住を図って城下町甲府を開創する |
1520年 |
つつじが崎の館北方の積翠寺丸山に要害城が築かれる |
1521年 |
信虎が甲斐に侵攻した駿河福島勢を甲府近郊の飯田河原に破る |
1523年 |
甲府城下町西側入口に湯村山城築城 |
1524年 |
信虎が相模国津久井郡に出兵し、北条勢と合戦 |
1525年 |
猿楽衆が甲府に招かれ、連日、能楽が催される |
1526年 |
信虎が富士北麓で北条氏綱と戦い、大勝 |
1531年 |
信虎が離反した今井・大井・栗原氏などを掃討 |
1535年 |
信虎が今川・北条両氏と交戦 |
1538年 |
信虎が冷泉為和らをつつじが崎の館に招き、和歌の会を開く |
1541年 |
信虎が駿河に退隠される |
1574年 |
信虎が高遠で病死。大泉寺で葬儀が行われる |