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武田三代のまちづくり

武田信虎が川田から躑躅ヶ崎(つつじがさき)に館をうつしたのが1519年(永正16年)12月のことです。それ以後、信虎・信玄・勝頼の三代、約60年にわたり現在の甲府の基盤(きばん)がつくられました。館は西・北・東の三方向を険(けわ)しい山に囲まれ、自然の地形を利用した要塞(ようさい)のようです。

城下町(じょうかまち)は、躑躅ヶ崎館から、南は一条小山(現在の舞鶴城公園)までおよそ3kmの規模でつくられました。まちの南北や東西に道がつくられ、武田親族衆(しんぞくしゅう)や有力な家臣の家も館の近くにうつされました。

信玄の時代には、甲府盆地を洪水から守るため、治水(ちすい)工事も行われました。釜無川左岸の竜王堤(りゅうおうづつみ)が、信玄の築いた代表的な堤です。堤防(ていぼう)の特徴(とくちょう)として、不連続(ふれんぞく)にすることにより、洪水時に堤防を乗り越えた水の抜け道となり、上流側(じょうりゅうがわ)の堤防が決壊した場合、下流側(かりゅうがわ)の堤防で支える構造(こうぞう)となっています。

また経済力(けいざいりょく)を強くするため甲州金(こうしゅうきん)も開発されました。産地(さんち)としては甲州市塩山の黒川金山(くろかわきんざん)や、身延町の湯之奥金山が有名です。産出(さんしゅつ)した金は純度が非常に高く、碁石(ごいし)のような形に加工され、領国内で流通(りゅうつう)しました。

現在、館跡(やかたあと)には武田神社があります。

 

信玄堤絵図(保坂達氏所蔵)
信玄堤絵図(保坂達氏所蔵)

現在の信玄堤
現在の信玄堤

甲州桝(武田神社所蔵)と信玄袋(武田神社所蔵)
甲州桝(武田神社所蔵)と信玄袋(武田神社所蔵)

 

★甲府の昔へタイムスリップ!

~武田信玄国主となる。信玄堤を造る~

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