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2026年6月号・武田氏の誇る堅牢な山城・要害山城の遺構を辿る

image01 山城とは、険しい山の地形などを利用して築かれた城のことです。今回は、甲府市役所歴史文化財課の案内で、実際に要害山城に登りながら、その歴史や遺構について教えていただきました。

※要害山城遊歩道入口

 

 

◆築城の目的と役割

image02 要害山城は、武田氏館の北側に築かれた山城です。1519年に武田信虎公が躑躅が崎に館を移した翌年、緊急時に籠るための詰めの城として築城されました。南は甲府盆地、北は太良峠に続く街道を見渡すことができ、東側には支城として熊城を築くことで、近辺にある水源を敵から守り、確保することができるようになっています。

当時は政庁と住居を兼ねた「居城」と籠城するための「詰めの城」をそれぞれ築くことが多く、要害山城も武田氏にとって普段の生活を送る場所ではありませんでした。

※不動曲輪(ふどうくるわ)から望む甲府盆地。手前には武田神社の杜が見えます

◆詰城としての活躍

image03 1521年、今川勢により身延町から現在の南アルプス市あたりまで攻め込まれた際、信虎公は大井夫人を要害山城へ避難させました。信玄公が生まれたのは、このときのことです。山頂の主郭部は平坦にならされており、屋敷があったことがうかがえます。土塁の跡も残っていますが、西側は開けており、信虎公はここから景色を楽しんだのではないかと言われています。その後、甲斐の国が深く攻め入られることはなく、信玄公の時代には要害山城が使われることはほとんどなかったそうです。

※主郭部に残る2つの大きな石は庭石だったとされています

◆現在も見られる遺構

 要害山城は武田氏のあと、徳川や豊臣の時代にも使用されました。現在残っている複数の曲輪跡や門跡の石積などは、その頃のものも多いようです。やがて廃城となり取り壊されてしまいますが、現在も土塁の跡やつづら折りの通路の名残、石積や竪堀など、多くの遺構を見ることができます。要害山城は、山城としての保存状態が極めて良く、大変貴重な山城跡とされています。

※門跡の石積と、その奥には段々に作られた土塁があるのがわかります

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今月の担当レポーター/若木 千尋(わかぎ ちひろ)

image06 念願だった要害山城の取材、とても楽しかったです。実際に登ってみて、長きにわたる森林保護活動や山の管理により良い状態が保たれている、という印象をもちました。松枯れなど、安全性の問題で入山できなくなってしまう山城跡もあるので、山を管理してくださる皆さまに感謝しながら、今後も史跡めぐりを楽しんでいきたいと感じました。

 

 

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