更新日:2022年9月21日
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所要時間 |
25分(65分) |
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距離 |
2キロメートル(5.2キロメートル) |
歩数 |
3,400歩(8,700歩) |
コース |
朝日小学校→清運寺→喜久の湯→太宰夫婦新居跡→御崎神社→(旅館明治)→朝日小学校 |
※()は湯村温泉郷まで行った場合
太宰が御坂峠の天下茶屋を下り、結婚直前に住んでいた下宿・寿館の前の道は清運寺の参道になっていて、中央には大きな敷石があったそうです。
現在は、アスファルトの道路になっていますが、太宰が執筆の合間に散歩がてら通ったであろうその参道の敷石は、現在、境内の藤棚の下に敷き詰められています。
また、清運寺には幕末の志士・坂本龍馬のいいなづけ・千葉さな子(佐那・佐那子)のお墓があります。
太宰は毎日3時ごろまで机に向かい、それから近くの「喜久の湯」に行って、汗を流したといわれています。
太宰と妻・美知子は昭和14年1月に新居となる御崎町(現・朝日5丁目)の借家に移りました。
8ヶ月という短い期間でしたが、充実した日々を過ごしたようです。
新居は空襲で焼けてしまいましたが、現在は新居があった場所に「太宰治僑居(きょうきょ)跡」の石碑があります。
太宰は、執筆の合間に住まいの御崎町周辺をよく歩いていたようです。御崎神社もその1つで、太宰の家からは目と鼻の先にある神社です。
御崎神社は、初めは石和(現:笛吹市)にまつられ、武田信虎がつつじヶ崎に館を構えた(現:武田神社)時、館の守護神として、館の三の曲輪に遷座しました。その後、甲府城や城下町の鎮守として現在の場所に移し、まつられています。
「旅館明治」は太宰が小説を執筆したことで有名な宿です。
太宰は、明治でも最も眺めの良い部屋を指定していたそうで、執筆は2番目に明るい部屋で、寝起きは1番明るい部屋と決まっていたそうです。
現在でも少しかたちを変えてではありますが、太宰の泊まった部屋が残されており、部屋の正面には太宰の作品などが展示してあります。
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