更新日:2022年8月26日
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甲府の山麓部に人々が生活を開始したのは、約27,000年前の旧石器時代のことでした。稲作農耕が始まる弥生時代になると、低湿地に集落が営まれ、盆地底部の開発が始まりました。
4世紀中頃には市域で古墳の築造が開始されます。巨大な横穴式石室を誇る加牟那塚の存在は、大きな経済力を持った政治勢力の台頭を示しています。
平安時代の末には武田信義が甲斐源氏を統率し甲斐の支配を固めますが、市域にはその子一条忠頼と板垣兼信が館を構え、源頼朝の源氏挙兵にも参加して活躍し、鎌倉幕府の創設に寄与しました。
武田氏が戦国大名として雄飛する基盤を築いたのが信玄の父信虎です。弱冠14歳で甲斐守護職を継いだ信虎は、反旗を翻す有力土豪を制圧し、つつじが崎に居館を築き、城下町の建設にも着手しました。甲斐の府中「甲府」の始まりです。
武田氏の勢力伸張に伴い、甲府は東国でも有数の規模の城下町に発展しましたが、特に信玄からは、水害から甲府盆地を守る大規模な河川堤防の建設や甲州金を用いた貨幣制度の創設、領国統治のための法律「甲州法度之次第」の制定、信濃善光寺の甲府移設による城下町の拡大等を行って甲斐国を豊かにしました。
近世を通じて甲府城下町が最も繁栄したのが柳沢氏の時代です。それまで甲府城主は徳川家一門に限られていましたが、将軍綱吉の側近柳沢吉保が甲斐を受封して城主となり、父子二代にわたって城下町の整備が進められました。
その後、甲斐は幕府の直轄地となり、甲府城には勤番支配が置かれ、幕末を迎えます。
甲府に市制が施行されたのは明治22年で、全国で34番目、関東では横浜・水戸・東京に次ぐものです。当時の人口は3万1千人余りでした。
太宰治はその作品の中で、戦前の甲府について、「シルクハットを倒さまにして底に小旗を立てたような、文化のしみとおったハイカラなまち」と書いています。
昭和20年7月の甲府空襲は市域の74%を焦土と化し、甲府の古き良き時代の面影は失われてしまいましたが、終戦直後には戦災復興局が設置され、市民一丸となって、槌音高く郷土の復興に立ち上がりました。
甲府市は、地方拠点として県内市町村の中心的な役割を担い、総合的都市機能の一層の充実に努めています。
前100年 | 甲府盆地で稲作が開始される。 |
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350年 | 日本武尊が、酒折宮に宿泊し歌問答を交す(伝説)。 |
6世紀後半 | 加牟那塚築造。 |
1180年 | 源頼朝の挙兵に呼応し、一条忠頼ら甲斐源氏出兵。 |
1519年 | 武田信虎が、つつじが崎の館を造営し、甲府を開創。 |
1541年 | 武田晴信(信玄)が国主となる。以後、四隣に領国拡大。 |
1582年 | 武田氏滅亡。 |
17世紀初頭 | 甲府城、及び近世城下町甲府完成。 |
1704年 | 柳沢吉保が、甲府城主となり城下町の再整備に着手。 |
1724年 | 甲斐国が天領となり、甲府城に勤番支配が置かれる。 |
1796年 | 甲府学問所開設。 |
1803年 | 甲府に大火。19町1108軒を焼失。 |
1868年 | 官軍が、甲府城に無血入城。 |
1889年 | 甲府に市制が施行される。 |
1903年 | 中央線甲府~八王子間開通。 |
1909年 | 歩兵第49連隊が、甲府入営。 |
1913年 | 市内に上水道給水開始。 |
1928年 | 富士身延鉄道全線開通。 |
1937年 | NHK甲府放送局開局。 |
1945年 | 空襲により市域の74%を焼失。被災者8万6900人余り。 |
1954年 | 住吉村ほか9か村を合併。 |
1955年 | 下水道事業起工。 |
1970年 | 甲府信玄祭り開催、甲州軍団出陣 |
1973年 | 甲府市中央卸売市場開設。 |
1982年 | 中央自動車道全線開通。 |
1984年 | 荒川ダム湛水式。 |
1986年 | 第41回国民体育大会開催。 |
1988年 | 第1回全国スポーツ・レクリエーション祭開催。 |
1989年 | 市制施行100周年。 |
1993年 | 南部工業団地竣工。 |
1996年 | 盆地サミット開催。 |
2006年 | 中道町、上九一色村北部地域と合併。 |
2019年 | 開府500年を迎えた。 |
2019年 | 中核市へ移行。 |
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