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更新日:2021年6月15日
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武田神社は大正8年(1919)に躑躅が崎館跡(武田氏館跡)に創建され、甲斐の名将・武田信玄がまつられています。
永正16年(1519)、信玄の父・信虎が躑躅が崎館をつくり、信虎・信玄・勝頼の3代が63年間にわたって住んでいました。現在では、この館跡は国の史跡に指定されています。
信玄の詠歌といわれている「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」との歌でわかるとおり、信玄には城も石垣もいらず、小さな館で十分であったと思われます。
神社社殿の東側には宝物殿があり、武具や軍配、軍旗など武田氏ゆかりの品々が納められています。
宝物殿(要拝観料)
甲府市古府中町2611
055-252-2609
武田信玄によって永禄元年(1558)に創建された浄土宗の寺です。戦国時代、信州善光寺が戦火によって焼失することを恐れた信玄が、仏像・寺宝を甲府に移し、自らが開基となったことに始まります。本堂は木造建築で、東日本で最大級の規模を誇り、山門や阿弥陀三尊像とともに重要文化財です。
重要文化財
「銅造阿弥陀三尊像」
「木造阿弥陀三尊像」
宝物館(本堂・宝物館とも要拝観料)
甲府市善光寺3-36-1
055-233-7570
臨済宗妙心寺派行基が創建し、その後、夢窓国師弟子竺峰和尚が一時衰えた寺を興し、武田家の菩提所として再建しました。この寺は、境内の巨石から泉が涌き出ていたことで、石水寺と呼ばれていましたが、いつごろからか積翠寺に改められています。
大永元年(1521)11月3日、戦火を逃れて要害城に避難した信虎夫人は、この寺で信玄を出産したと伝えられています。現在も産湯を汲んだ井戸があり、産湯天神が祭られています。
寺院裏には釣鐘をふせたような山(要害山)が見えますが永正17年(1520)、躑躅が崎の援護地として信虎が築城した要害城跡です。
市文化財「武田信玄和漢連句」
産湯天神
甲府市上積翠寺町984
055-252-6158
信玄の墓はこのほか、山梨県内では大泉寺、恵林寺、長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺、和歌山県高野山、愛知県福田寺、京都の妙心寺など全国にあります。
これは信玄が遺言によって、喪を3年間秘めていたことや万一の外敵を恐れて、埋葬地を秘密にしていた結果とも見られています。
県文化財(天然記念物)
「八房梅」
甲府市岩窪町北部幼児教育センターの前
大永元年(1521)、武田信虎が天桂禅長を開山として建てた寺で、信虎の菩提寺です。
天正2年(1574)3月、信虎が信州で没した時、その遺骸を国元に送り、ここに埋葬されました。
この寺も戦災のため、法堂、庫裡などを焼失しましたが、幸い、武田3代の霊廟、総門、宝蔵は火をまぬがれ、霊廟には信虎・信玄・勝頼3代の肖像が安置されています。
信虎・信玄・勝頼の墓
重要文化財
「絹本著色武田信虎像」(信玄の弟である、逍遥軒信綱画)
「絹本墨画松梅図」
甲府市古府中町5015
055-253-2518
62代村上天皇の苗裔六条有成が得度、浄閑と称し長享元年(1487)、創建された寺です。
この寺には信玄の次男・武田信親(竜宝・竜芳)の墓があります。信親の子・信道の子孫が連綿と続き、現在は武田家17代英信氏です。
武田信親の墓
甲府市住吉4-13-36
055-228-2907
武田信玄公は広く仏教を信仰し、宗旨のいかんを問わず、寺院・僧侶を崇敬保護しました。
なかでも信玄は禅法を尊び、臨済禅の関山派に深く帰依し、京都や鎌倉五山にならって、府中とその周辺に府中五山(甲府五山)を定めました。
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