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明治の水害

1907年(明治40年)8月22日から28日にかけ、台風の影響(えいきょう)による記録的な大雨で川の水があふれ、土砂崩(くず)れや堤防(ていぼう)、橋の破壊(はかい)などを引き起こしました。家がこわされ、住んでいる地域が孤立(こりつ)し、畑が水につかり、道路も寸断されるなど、甲府盆地から東の地域を中心に大きな被害(ひがい)が出ました。

死者は233人、流された家は約5000戸で、山梨県の近代における最も大きな災害となりました。

また、その3年後にも集中豪雨(しゅうちゅうごうう)により、大きな水害が起こりました。このころは、蒸気機関車(じょうききかんしゃ)の開通などにより、燃料(ねんりょう)となる薪(まき)がたくさん必要になってきました。そこで、山の木をたくさん切り倒したのですが、その結果木のないはげ山が多くなってしまいました。ふだん山では、雨が降っても木が根をはっていますから、雨水を土にとどめ、土砂は流れ出ませんが、木のないはげ山になってしまったので、雨が降った時に、水を貯(たくわ)えることができずに、土砂崩れが起こりました。

これらの水害により、1911年(明治44年)、恩賜林(おんしりん)を明治天皇からいただき、山の木などの管理(かんり)を県がすることになりました。それを記念して建てられたのが、今も甲府城にある恩賜林記念碑(きねんひ)です。

 

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