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柳沢吉保

5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の頃、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が甲斐15万石の領主となりました。

甲斐の国は江戸の西を守る重要な場所だったため、徳川家以外の者が城主となることは本来許されませんでした。しかし、綱吉の特別なはからいによって、武田家の家臣(かしん)を先祖(せんぞ)にもつ吉保が甲府城主となりました。

その時の喜びを吉保は、
「めぐみある 君につかえし 甲斐ありて 雪のふる道 今ぞ踏みみん」
とよんだそうです。

1709年(宝永6年)には、吉保の子・吉里(よしさと)が跡をつぎ、2代で20年間領主をつとめました。

甲府のまちの発展のようすは、
「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り」
と表現されました。

柳沢氏が領主を務めた20年間で甲府は大きく発展し、領民たちの生活は豊かになりました。1724年(享保9年)、吉里は甲府から大和郡山(やまとこおりやま、今の奈良県大和郡山市)に転封(てんぽう)(※1)となりました。

以後、甲斐の国は江戸幕府(ばくふ)が直接支配することとなり、甲府城は甲府勤番(きんばん)とよばれる幕府の役人により支配されました。

 

 

※1転封:国替(くにがえ)、大名の所領を別の場所に移すこと

 

 


絹本著色柳沢吉保像(県指定文化財)【一蓮寺蔵】

 

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