更新日:2022年8月22日
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江戸時代、甲府の城下町の飲用・生活用・防火用に使用した上水道のことを「甲府上水」と呼んでいました。甲府上水は、甲府城主浅野氏の時代(1592~1600年)に整備されたと言われ、江戸の神田上水(1590年建設)とともに、全国的に見ても非常に古く歴史のある、城下町の上水道です。
当初の甲府の城下町は、飲用などに適する水を安定して確保するのが難しかったようです。そのため、以前からあった荒川・相川を水源とする灌漑(かんがい)用水を改修して、上水道として利用しました。荒川の山宮取入口(山宮町)から湯川を経由する用水と、荒川から陣場堰(せぎ)(富士見2丁目)を通じて運ばれる灌漑用水からなり、この2つの水を相川と合流させて水量を増やし、相川大口(宝1丁目)から城下町まで水を引き入れていました。
画像:舞鶴小学校の東側に残る甲府上水の跡
城下町に入ると多くは石蓋(ぶた)をのせた石垣の水路でしたが、場所によって、堀の上を渡す掛樋、土の中を流す埋樋(うめどい)などが用いられていました。セメントがない当時、石樋(せきひ)は継ぎ目に漏水も多く、部分的な修理に不都合だったので、樋は木材が多く用いられていました。
画像:当時、使用していた箱型の木樋(幅約20cm)。市歴史公園に展示しています。
甲府上水は、町の用水と農業用水との兼用だったため、渇水期には水をめぐって、都市部と農村部で争いが起こったこともありました。町用に使うか、農業に使うか、水の使用時間を決める“時水制”で水争いを解決したそうです。
また、甲府のまちには昔、良質な水を桶(おけ)に入れて売り歩く“水売り屋”と呼ばれる商人もいたそうです。
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