更新日:2022年8月22日

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藤村(ふじむら)式建築

明治前期の西洋建築と日本建築を融合させた建物を、県内では藤村式建築といいます。
明治6年に山梨県権令(後に県令。現在の県知事)に着任した藤村紫朗が、文明開化の象徴ともいえる洋風建築を奨励したことから、その名が付けられました。

市内で最初に建てられた藤村式建築は、明治7年に竣工(しゅんこう)した琢美学校と梁木(やなぎ)学校です。その後、約6年間に、市内では5校の藤村式建築の校舎が建てられました。

また、同時期には県営勧業製糸場、山梨裁判所、県病院、県庁、甲府警察署などの官公庁が、民間では旧甲府城下町の商家などが次々にこの建築様式を取り入れていきました。


画像:梁木学校。後に市役所庁舎(初代)としても活用。

 

明治10年に甲府を訪れたイギリス外交官のアーネスト・サトウは、当時の街並みを「この町の西洋建築を模倣した建築物の数は、町の規模からすれば私が知る限りで日本一だ」と日記に書いていますので、藤村式建築が初めて登場してから約3年の短期間で、多くの藤村式建築がつくられたことがわかります。

藤村式建築が急速に広まった背景には、甲府が江戸に近く、新しい文化を取り入れる気風があったこと、城下町に財力をもった人が多く住んでいたこと、そして、洋風の建物を建築できるすぐれた大工が身近にいたことがあったからだと考えられます。


画像:藤村式建築からその名が付いた「甲府市藤村記念館」

 

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