更新日:2019年12月23日

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甲府城跡(こうふじょうあと)

舞鶴城跡

現在、甲府城跡は舞鶴城公園として親しまれています。
築城以前は一条小山と呼ばれ、武田氏の築いた砦(とりで)や一蓮寺がありました。
甲府城は、戦国時代の終わりに豊臣秀吉の家臣らによって、甲斐を治める新たな拠点として築城されました。
築城当時、豊臣氏に次ぐ勢力を誇っていた徳川家康が関東に入ったため、秀吉は家康を封じ込め、監視するために領国の境界に位置する甲斐国に甲府城を築いたと考えられています。そのため、秀吉の腹心だった加藤氏や浅野氏が城主となり、浅野氏の時代に精力的に築城されたことが発掘調査によって出土した瓦の家紋から明らかになりました。その後、徳川家康の子義直、秀忠の子忠長などの城主を経て、宝永年間(1704~1711)には柳沢吉保が城主となり、城の修築工事や城下町の整備などを行い、甲斐国は大きく発展しました。
しかし、吉保の子吉里が大和郡山城主として転封された後、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府勤番の支配下におかれ、その間の享保12年(1727)の大火により本丸などにあった主な建物を焼失しました。
甲府城の規模は、現在の舞鶴城公園程度と思われがちですが、県庁南のスクランブル交差点が当時の正面玄関(追手門)、甲府駅北側に復元された山手御門(やまのてごもん)が北の玄関口、さらにその外側には二の堀・三の堀が開削され、城跡を中心に19haもの土地が城内に取り込まれていました。
現在も高い石垣が随所に見られますが、これらの石材は城跡北東に位置する愛宕山から多く運び込まれたと考えられています。建設機械のない時代に巨石を運ぶだけでも大変なことですが、高い場所まで持ち上げ、石を積み上げることは至難の業だったと想像されます。

  • 区分…国指定文化財(史跡)
  • 指定年月日…平成31年2月26日
  • 所在地…丸の内1丁目

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